「エッサイの株から」 


 イザヤ書11章1〜10節 
 2007年7月1日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



先週は全国教役者会に参加させていただきましたので、今日は私の方から「ただいま」とご挨拶させていただきます。全国教役者研修会は2年に一度行なわれる、牧師だけでなく、伝道師、主事、宣教師の先生のための集いです。今年は、群馬県の上毛高原駅からさらに北に行った新潟県に近い、猿ヶ京温泉という所で行なわれました。とても良い温泉地で、リフレッシュすることが出来ました。皆様のお祈りを感謝します。群馬県のキリスト者と言えば、かつては内村鑑三の名前が挙がるでしょうが、現代では星野富広さんが有名だと思います。オプションのツアーで私は星野さんの富広美術館に行ってきました。とても風光明媚なところで、草花を愛されている星野さんにはぴったりな環境でした。バスや車でないと行けないところなのですが、私たちが訪れた時にも、別な団体の見物客が来られていました。他にも、足尾銅山の採掘跡地を見物するなど、私にとって余り馴染みのなかった群馬県を満喫することができました。そして久しぶりに会う同労の方たちと過ごすことは心安らぐ時を過ごして帰って来ました。猿ヶ京温泉の土産を買ったのですが、宿舎に忘れて来てしまいました。あるのは東京土産です。申し訳ありませんでした。

さて、先週で主イエスのたとえ話を終えて、今月からの三ヶ月間の聖書教育のテーマは「共に歩む」です。そして7月は特に「人権」について聖書から聞いていきたく思います。「人権」という概念自体が近代に入ってからのものですから、直接聖書にはこの言葉が出て来ることはありませんが、その意味するところは聖書の至るところに出てまいります。人間一人ひとりにかけがえのない権利である人権があるのは、主なる神が私たちをかけがえのない存在としてお造りになったことによっています。

さて、本日の聖書箇所は、クリスマス前のアドベントの時によく読まれるイザヤ書の中でも馴染み深い箇所です。ここには、イスラエルの滅亡とそして救い主が現れることが書かれているからです。エッサイとはダビデ王の父親の名前ですが、ここではイスラエル王国を指していると言ってよいでしょう。そして「株」というのは木を切り倒した後に出来る切り株のことです。つまりイスラエルであるエッサイの木がいったん切り倒されて切り株だけが残っている状態にあったのです。イスラエルが滅亡し、廃墟のようになってしまった。しかしそのような中から、その残された切り株から新しい芽が出る、若枝が育つと言われています。これこそ、切り落とされてしまったイスラエルの中から、新しい救い主が生まれる、それはイエス・キリストの誕生の預言だとされています。そしてその新芽であり、若枝である主イエスの上には、主の霊が留まっているというのです。これこそは主イエス・キリストの誕生の預言であります。2節には、このメシアには「主の霊がとどまる」とあります。これは特別な任務を帯びた者として召されるということです。「知恵と識別の霊」とは、民を支配する者が民を正しく裁くのに必要な知恵です。そして「思慮と勇気の霊」とは、知恵で得たものを実行に移す能力のことです。そしてそれは、「主を知り、主を畏れること」すなわち主を信頼し、主に従うことを意味しています。3・4節は、「主を畏れ敬う霊に満たされた者」は、真の知恵を身につけ、弱い人、貧しい人のために正しい裁きを行なう。5節の「腰の帯」とは、一番力の入る所のことであり、理想的な救い主、メシアは「正義」と「真実」を帯びた者であるということです。

6〜9節では、そのメシアの支配と裁きによる平和が自然界にも広がった幻の様が描かれています。主の霊を与えられた理想的なメシアが正義と真実をもって支配する終末の時には、人と人の間に平和が実現するだけでなく、弱肉強食の自然界にも平和が実現されます。肉食獣である狼、豹、獅子、熊も、草食動物である羊、山羊、牛と共に住み、草食となる。創世記1章30節にあるように、これは天地創造の最初の状態に戻ることを意味します。ノアの方舟に入れられた動物たちは、平和的に共存しました。人間に肉食が許されたのは、洪水の後の9章3節での主の言葉によります。終末的メシアの支配する時には、いかなるものも殺しあうことがなくなるのです。6節の最後の「小さい子供がそれらを導く」は、理想的メシアの支配の中では、「小さい子供」が指導者となる。それは小さいものこそが、高められることに繋がるのでしょう。

預言者イザヤは、イスラエルの破局に直面し、また現実の政治が崩壊し、王への不信が高まっていた時に、新しいそして生き生きとした一人の王を待ち望みました。私たちキリスト者にとっては、その一人の王こそ、救い主としてのイエス・キリストです。

救い主誕生の雰囲気は霊に満たされています。イザヤは9章において、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住むものの上に光が輝いた」と述べました。ここでの暗黒に光が差し込むとは、ただ単に別の光が入り込んできたというのではなく、私たちの日常の現実の中からは生まれてこない光が私たちをそのまま変えるという意味を与えています。その9章の3節でイザヤは「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」と語ります。ここでの「喜ぶ」とは、決して苦しみの反対を意味するのではありません。暗闇の中にある民に、今与えられようとする大いなる光は、苦しみの中にあっても喜びに満たされる世界へと導いてくれる光です。どんなに苦しみの中にある者も、どんなに重荷を負うている者も、喜ぶこのとのできる喜びがここには示されているのです。

さて、11章に戻りますが、「エッサイの株から」一つの芽が出て、その根から一つの若枝が生えて実を結びました。これこそが、先ほども述べたように、ダビデ王朝の崩壊の後に、その切り株から救い主イエス・キリストが生まれることを指しています。

その上に「主の霊がとどまる」。その霊は、イエス・キリストに三種類の霊を与えました。神の知恵としての「知恵と識別の霊」、状況に対する深く正しい判断としての「思慮と勇気の霊」、そして「主を知り、畏れ敬う霊」これは敬虔。救い主イエス・キリストの全生涯を見る時、神の知恵とあらゆる状況に対しての主の深い洞察と十字架上の死に至るまでの敬虔(深く敬い慎む)がみなぎっていることを思わされます。そしてそのなされる裁きは、見えるものにだけよるのでなく、その受けた霊の導きに従って行なわれる。それは弱い人、貧しい人のための裁きであり、そのことによって、正義と公平を確立されるのです。

私たちはその主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストを信じることで、その主が受けられたと同じ霊を与えられます。それは私たちがイエス・キリストのようになるのではなく、イエス・キリストを見上げることで、イエス・キリストと同じ姿へと造り変えていただけるのです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)とある通りです。

主の霊に満たされた救い主は、人間に対して正しい裁きを行なうだけでなく、自然界全体にも全き平和がもたらされることが6節以降に述べられています。これはいささかユートピア的であって、一見すると非現実的に思えます。現実においては、動物の世界も人間社会も弱肉強食の世界です。権力者が貧しい者を虐げ、狼は小羊を餌食にし、毒蛇が乳飲み子を噛んで死に至らせている。しかしイザヤは、このような現実は、本来の神の創造の世界ではないと思っていたのでしょう。

最初の創造の時に、人間にも動物にも食糧として与えられたのは植物だけでした。肉食が許されたのは、ノアの洪水の後でした。すなわち、人間が動物を食べ、、動物も他の動物を食べるようになったのは、人間の罪の結果です。それゆえ、私たちが当たり前だと思っているこの弱肉強食の世界は、人間の罪によるものであり、本来の世界のあり方ではないのです。

キリストはその罪によって歪められてしまったこの世界に神の秩序、弱い人、貧しい人が守られ弁護される世界、肉食獣と草食動物が共存する世界をもたらすために、この地上に来て下さいました。それは憎しみに対して憎しみをもって立ち向かうのでなく、暴力に対して愛をもって相対されました。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神に和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」(エフェソ2章14〜17節)

平和とは単に争いのない状態ではなく、神との正しい関係にあるときに、造り出される状態であります。イザヤの時代は、強国アッシリアの力によって戦闘状態にない「アッシリアの平和」と言われていました。イエスさまの時代も「ローマの平和」と言われ、同じような状況でした。これは、アッシリアとローマの圧倒的な軍事力によって他を押さえつけた結果の争いのない状態でありました。その背後には抑圧され、虐げられていた人々がいました。これは真の平和とはいえません。その点では、現代の世界も同じだと言えます。

イザヤがここで描いた理想的なメシア、救い主は、そのような権力で押さえつけて戦争のない状態を作り出すのでなく、9節にあるように「大地が主を知る知識で満たされる」ことによって造り出される神との正しい関係に立つ平和です。これこそが真の平和であり、それを実現したのは、十字架の死に至るまで従順であられてイエス・キリストです。そのイエスさまを見上げ、そのイエスに従って平和を作り出す者とされることを願いましょう。


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