「十字架といじめ」 


 マタイ27章27〜31節 
 2007年7月8日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。先日、町のある方から次のように言われました。「自分はクリスチャンでもないし、教会に通ったこともない。しかし以前より、クリスチャンの方たちが毎週礼拝に通われている姿には敬服させられている。自分は聖書もちゃんと読んではいないから、よくは分からないけど、毎日曜日に教会に通うあの人たちの姿にこそ、クリスチャンの力の源があるように思う」と、そんな内容のことをおっしゃったのです。その方は、私がクリスチャンであることも牧師であることもご存じない方でした。ですから社交辞令でそのようにおっしゃったのではありません。私たちは、神さまに対して何も出来ないと考えてしまいます。まして、伝道、神さまのことを伝えることにおいても全く無力であると思ってしまうことが多くあります。しかし、私たちがこうして毎週教会に通って来ていることを、世の人々はちゃんと見ておられます。そしてそのことが私たちの力であり、人々にも影響を与えていることを、私は神さまからの励ましの意味でも教えられた思いとなりました。今日もこのように皆さんとご一緒に神さまの前に出て、礼拝できますことを心から感謝申し上げます。

皆さんにもご紹介させていただきました映画『日本の青空』を見てまいりました。今日の午後まで上映されますので、もしチケットをお求めの方がおられましたらお申し出下さい。現行の日本国憲法が制定された経緯を描いた映画でありますが、この憲法は日本人が独自に作ったものではなく、アメリカによって押し付けられたものであると言われてきました。たしかに「ポツダム宣言」に基づいて日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)が起草した「日本国憲法草案」を基礎にして制定されたものではあります。しかしこの映画は、GHQがその草案を起草するにあたって、日本の民間の憲法制定研究団体である「憲法研究会」が発表した『憲法草案要綱』を手本にしたという今まで一般にはあまり知られていない事実を私たちに紹介してくれました。その憲法研究会において中心的役割を担ったのが、この映画の主人公の憲法学者の鈴木安蔵という人物でした。彼は「日本国の統治権は日本国民より発す」を根本原則にして憲法を草案していきます。そして鈴木に大きな影響を与え、彼が憲法草案を考えるに当たってモデルにしたのが土佐の生んだ自由民権の思想家の一人である植木枝盛であったのです。植木は明治14年の時代にあって、基本的人権を具体的にしかも幅広く認めた国民主権の考えを取り入れた『東洋大日本国国憲按』という憲法草案を考えていたのです。鈴木たちはその植木枝盛のこの草案を元にして憲法研究会の『憲法草案要綱』を考え出しました。この植木枝盛という人物こそは、土佐が生んだ偉大な思想家だと言えます。そして彼は洗礼は受けていなかったそうでありますが、教会に通い続けた人で、礼拝だけでなく祈祷会にも長く通っていた人物であったそうです。国民にこそ国の主権があるという考えを彼に与えたのは、聖書ではなかったかと言われるゆえんであります。

さて、本日与えられました聖書の箇所は、主イエスの十字架の場面です。以前にメッセージで、ある牧師が「自分は礼拝の説教で十字架のイエスのことだけを語る」と言っておられたことを紹介させていただきました。私もそうだと思います。イエス・キリストの生涯と教えの神髄は十字架と復活にこそあるからです。十字架と復活にこそ、イエス・キリストがこの地上に来て下さったことの意味と本質が表れています。イエスさまの生涯は、人々を愛し、人々に仕え、それは寝る間も惜しんで歩まれましたが、その結果、人々から見捨てられ、最後は十字架に掛かって殺されるというものでありました。しかしそこにこそ、キリストの愛と赦しのみわざが現れております。そして同時に、この十字架の場面には、その時代を生きた人々の赤裸々な姿が出てまいります。

 今年のレントの季節においても、私たちは礼拝でマタイによる福音書から主イエスの十字架を見てまいりました。それは私たちにとっても目をそむけたくなるような場面、避けて通りたくなることの連続でありました。しかしその時にも申し上げましたが、これら一連の十字架の出来事こそが、私たちにとって最も深い信仰の味わいの時であり、恵みの時であります。

 今日のこの場面に至るまで、イエスは逮捕された後たらいまわしにされました。先ず大祭司カイアファ(口語訳ではカヤパ)のところに連れて行かれ、その後ローマ総督のポンテオ・ピラトのもとにまわされます。そして一方的な裁判により不当とも言える判決を下されます。この27節以下に記されているローマ兵の態度は主イエスを完全に侮った態度です。「着物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨の冠を頭にのせ、葦の棒を持たせて“ユダヤ人の王万歳”と言って、唾をはきかけ葦の棒で頭をたたき続けた。」

 主イエスに可愛がられ、愛された12弟子たちはと云うと、ペテロをはじめ自殺したユダを除いて全員が逃げ出しています。群衆たちは「十字架につけろ」と叫び続けました。彼らも1週間前には「ダビデの子にホサナ」と言って、主イエスを歓喜して迎え入れたのに、この時は全く変わってしまっています。その豹変ぶりは理解し難いほどであります。ピラトはと言うと、イエスが死に値するほどの罪を犯していなかったことには気づいていながら、民衆を恐れ、もっと言うと、このことがローマ皇帝の耳に入って自分の出世に影響を与えることを恐れたのでしょう、彼は毅然とした態度がとれずに、「この男の血についてわたしには責任がない」といって、民衆にその責任を転嫁しています。主イエスはここでは徹底的に孤独です。こここにおいては誰一人、主イエスの味方はいません。

 先月、ある方との関わりの中で、私は孤独と理不尽な思いに駆られることがありました。そのことを詳しくお話しすることは出来ないのですが、それによってその場の人たちはみな傷を受けることになったのです。誰かにその原因があったのではありませんでした。強いて言えば、間の悪さであったのかもしれません。皆が自分が受けた傷を述べ合いだしました。自分が被害者であることを訴えたのです。私には、十分な配慮が欠けていたことはありましたが、そのことの主原因というか落ち度が私にあったのではありませんでした。私もそこで言い訳をしようとする思いが出てまいりました。それは自分を守ろうと思ったからです。自分の側から見るならば、それはある意味理不尽であり、自分には弁解するだけの理由があると思ったからです。しかしそこにおいて自分を守ることは、目の前の相手を攻めることになってしまいますから、私にはそれは出来ませんでした。人はみな自分を守ろうとします。しかし自分を守ろうとすることは、相手を攻撃する、当面の相手を攻めることになってしまうのです。このとき、私は主イエスの十字架を少しですが、身近に感じることが出来たのです。

 主はこの十字架の場面で自分を守ろうとはされなかった。人々がそれぞれに自分の立場を守ろうとして、自己弁護をしたり、相手を攻めることをただ甘んじて受けられた。それこそが十字架の出来事であることを教えられたのです。

 今日の場面にはもう一種類の人々が出ております。その人たちのことは直接には聖書の中の記述には出ていません。しかしもしかすると、数の上では最も多かったかもしれませんし、また、私たちがさまざまな場面において、身を置くことになる立場なのかもしれません。それは事のなりゆきをただ傍観していた人たちの存在です。彼らも、自分ではどうにもしようがなかったと弁解することでしょう。自分たちは直接イエスを十字架をつけたのではないと反論したことでしょう。また、そう思うことで自分を守ったのだと思います。実際、そこには軍隊がいたわけですし、自分たちの支配者である政治的宗教的な指導者もおり、強行に「十字架につけろ」と叫ぶ人々がおりました。彼らは何もしなかっただけなのかもしれません。しかしこの何もしないという態度の中には、何もしないことで自分を守ろうとする思いが働いているのです。そしてそのことが人を傷をつけ、人を見殺しにすることにつながっていくのです。聖書教育には次のように記されております。

 「関係を断たれ、孤立・絶望する人々、追い詰められた人びとが子ども・大人を問わず、存在します。同一化・画一化されるところでは、いじめの問題が起こります。同質の集団や社会から、異質な存在や同調しない者を排除しようとする心や行為です。同質・画一の度合いが深まるほど、いじめは著しくなります。教育現場の国旗・国歌の強制も人を同質化・画一化する動きで、これに反対する人びとは排除されていきます。いじめの典型です。そのようないじめの構造は、イエスが捕らえられ、裁判を受け、十字架につけられる過程で明らかにされ、その構造を作り出す人の罪も明らかにされます。」

 主イエスは、常に抑圧され、排除された人たちの側に立たれた方でした。それは失われた、迷い出た側の人びとを探し出すことにつながります。その失われた人を探し出すことは、えてして大多数のそうではない側の人びとの神経を刺激する、時には逆なでするようなことにつながります。世の常識という尺度では測れない行動となるのです。ルカ15章に記される「見失った羊」のたとえに見られるように、ちゃんとした99匹の羊を置き去りにしてでも失われた羊を捜し出すことが、天の喜びとなると語られることの中に、父なる神さまの、そして主イエスの私たちに対しての関わり方があらわれています。

 私たちは、その主の愛の中で生かされ、そして赦されて、その主イエスの愛の眼差しのもとに歩んでいる者であります。その眼差しの元にあって、私たちはどこに自分をおくかが常に問われています。そして主イエスの十字架の下に呼び集められた者たちの群れである教会には、枠の外側に出てしまった人たちをこそ大事にするメッセージを発することが求められているのです。お祈りをしましょう。


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