「第一にすべきこと」


 ルカ11章37〜54節 
 2007年7月15日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。台風一過とはよく言ったもので、昨日のあの雨風がうそのような天候となりました。台風が高知を通過するということをニュース等で聞かれた方たちが何人か心配してお電話下さいました。朝になって完全に調べたわけではありませんが、今の所、何か被害があったのを発見はしていません。この後も皆さんの方でも、教会内を見ていただき、何か破損箇所等に気づかれたことがあればお知らせ下さい。皆さんのお家の方はいかがだったでしょうか。また何かありましたが、お知らせ下さい。

さて、本日の聖書の箇所は、主イエスがファリサイ派と律法の専門家、口語訳聖書では律法学者となっておりましたが、ファリサイ派と律法学者を厳しく非難して対決された場面のお話しです。これも今の新共同訳では43節や46、47節では「不幸だ」となっていますが、口語訳聖書そしてその前の文語訳聖書では「わざわい」となっておりました。それほどの激しい言葉でファリサイ派や律法学者のことを批判、いや「わざわい」と云う言葉からは非難といえるほどの調子で論争されています。その結果、53節を見ると、彼らは主イエスに対し「激しい敵意」を抱いたと書いてありますから、今日の論争が主イエスを十字架への道を歩ませた大きな要因になった話です。39節の終わりには「内側は強欲と悪意に満ちている」とまでおっしゃっています。そこまでのことを主イエスがおっしゃった真意は何だったのでしょうか。

 37節では「ファリサイ派の人から食事の招待を受けた」とあります。このことからも、主イエスが元々はファリサイ派たちと対立されていたわけでないことが分かります。共に食事をする、同じ食卓につくということは、現代でもそうでしょうけれど、この当時も友好の徴でありました。しかし食事をふるまったにも関わらず、これほど悪しざまに批判されたのですから、この人がどれほど激しく怒ったかは想像するに難くありません。

 44節に「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」という言葉があります。当時の人々は、墓には人を汚す魔力がると考えていたようです。別な箇所で主イエスは、律法学者に対して「白く塗られた墓」とおっしゃったのがありますが、人びとがうっかり間違って墓に入り込まないように、はっきり墓があることがわかるように墓を白く塗ったのです。ところが今日のここでは、ファリサイ派たちは「人目につかない墓」になぞらえられている。最初は白く塗られていたのかもしれませんが、はげてしまったのでしょうか、人がうっかり墓の上を歩いてします。ファリサイ派はむしろ表面は信仰の装いをしていますから、汚れの徴の白さなども、自分にはついていないと思っています。しかしそれは私たちキリスト者に同じことが言えるのではないでしょうか。そして私たちの日々の生活や、口から発せられる言葉が、神の恵みを伝えるのではなくて、神に近づこうとしている人を遠ざけてしまう働きをしていることがないといえるでしょうか。

 改めて考えてみたいと思います。当時のユダヤの民は主イエスにとって、どんな存在だったでしょうか。民の中で誰よりも信仰に熱心に生きていたファリサイ派たちは主にとっていかなる存在であったことか。神に選ばれた民ですから、私たち現代の教会の前身ともいえる存在です。イエスさまにしてみれば、最初から敵対しようと思っておられたのでは決してなかった。正に自分の仲間です。そのご自分の同志とも言える民の招きを喜んで受け入れられた。だからこそ、深い悲しみをもって、この人のわざわいを、不幸を、問わずにはおれなかったのです。それは捨てゼリフを吐いて切り捨てるのでなく、むしろ彼らが気づいていない根の深いわざわいに気づかせるための促しの言葉だったのではないかと思います。

 ここでファリサイ派に対して問うておられるのは、日々神さまのことを考えそのための奉仕やわざにいそしんでいる人びとの中にある鈍感さです。42節に「正義の実行と神への愛はおろそかにしている」とあります。ここもさまざまな翻訳が試みられており、ちなみに口語訳では「なおざりにする」でした。また別な翻訳では「義と神に対する愛とを見過ごす」とされております。見ていながら見えていなかったり、場合によって見ながら見えていないふりをすることもあるのかもしれません。ここの言語の元の意味は「通り過ごす」です。義があり、愛があるのに、通り過ぎてします。そういう鈍さです。彼らは献げものには熱心でした。律法の規定どおりに、十分の一は宮に献げているのです。ところが義の傍らを通り過ぎてしまう、愛の傍らを通り過ぎる。ここの「義」も他の箇所では「裁き」とも訳されることの多い言葉です。また「神への愛」という部分も「神からの愛」と訳することの出来る言葉です。「神からの裁きと神からの愛とを気づかずに通り過ぎてしまう」無視してしまう。自分では一所懸命に神様にもよいことをやろうとして励むのですが、神がさばかれる、神に愛していただくということを、実は無視することとなっている。そういう鈍さです。信仰に熱心に生きている人々中に、神ご自身の義に対する鈍感さがある、神を愛し続けて生きることの鈍感さがあるのです。そのように言われると、全く他人事ではないことを強く思わされます。

 主イエスのファリサイ派に対する言葉を聞いていて、45節で黙ってられない人が現れました。共に招かれていたファリサイ派の友人でしょうか、一人の律法の専門家が「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と反論しました。律法、すなわち神の言葉の専門家です。ファリサイ派たちは、一所懸命神の言葉に従って、信仰生活をしようとした人たちですから、その人たちがいつも律法の専門家を頼りにしていたのは当然のことであります。神の意志や神の言葉をいつも解き明かし、神の言葉に基づいた具体的な行いを教えてくれる律法学者は、ファリサイ派にとってはとても大事な存在でした。そんな律法学者のいるところで、主イエスが「あなた方ファリサイ派は一所懸命におきてに従い、十分の一の献げものをしながら、かえって義と神に対する愛を無視し、そこを通り過ぎている」と言われたのですから、彼らもファリサイ派と同様に怒るのは当然だと思います。これこそ神の言葉、神の教えと確信して、人にも教えている教師ですから、こういった主の言葉が彼らのプライドを傷つけたのは間違いありません。

 この後半で主イエスが律法学を批判しておられるのは、46節に出ております。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷を触れようとしないからだ」

彼らも律法の専門家ですから、その彼らの説く教えは神の言葉に基づくものであったでしょう。ここでのイエスの「自分では指一本触れようとしない」とおっしゃっているのは、彼らが人に言うだけで、自分はその教えを守ろうとしていないというのではありません。彼らは律法の教えを忠実に守った、完全には無理でも守ろうとしたのだと思います。

 私たちが神の言葉に従って正しく生きるということは、一人では絶対に成り立たないことなのです。自分の傍らにいる人、自分の共に生きている人のことを無視することはできません。神の言葉に従って生きることには、自分の周囲の人がどんな状態であるかを無視することでは成り立たないのです。すべての周りに生きている人間を無視して、自分だけは正しい道を生きるということは起こり得ないのです。あなたの隣人は今どうであるか、あなたにとって隣人はどういう存在であるかが常に問われます。しかもそこで、自分が既に他人に負いきれない重荷を背負わせておきながら気づいていない、その重荷を負う人を助けようともしないのであれば、それは神の言葉に従って生きることにはならないのです。その自分の正しさに生きることが求められ、正しいことを語り続ける、人に教えを述べる者こそが心しなければいけないのです。その正しさで人にのしかかっていないか、ヒトを圧倒していないか、抑えつけていないかを。そしてそれは、どんな立場の者であっても、私たちが正義を持って人に相対するときに、実にしばしば犯してしまう罪であります。人を指導する、人の過ちを正す時におこしてしまう鈍感さであります。重荷を負わせておきながら指一本ふれないくせに、それらの相対する人のことを裁いてしまう。場合によっては人を裁くことで自分の正しさの証明をしようとしてしまうのです。牧師などは特に心しなければならないことだと深く自覚させられます。周囲の人に重荷を負わせることで、自らの存在意味を見出している。その重荷を負いきれない人のことを裁き、そのさばくことで自らの正しさを証明することさえしかねません。主イエスは決してそのような歩みはなさいませんでした。主は人びとの重荷を下ろさせるためにこの地上にこられましたのです。ですから、彼ら律法の専門家たちのしていることはどうして受け入れることの出来ないことであったのです。

 47節には、「先祖が殺した預言者」と云う表現が出てまいります。イスラエルの先祖たちは、神から送られて来た預言者を殺したのだと主イエスは言います。それは更につきつめて言うならば、神の言葉を殺したということです。そして、この後主イエスを十字架で殺す罪までおかしました。ハイデルベルグ信仰問答という信仰問答集がありますが、その信仰者の生活についての中では「十戒をどう守り、主の祈りをどう生きていくか」が書かれています。そしてその表題は「感謝について」となっております。毎日を感謝に生きる生活なのです。そして感謝とは「古い人が死に、新しい人が甦ること」だといいます。古い人が日々死なねばならない。それは私たちが心から罪を悔い、古い罪の存在を脱ぎ捨てることです。それが出来るのは主が私たちを贖い、罪から自由にして下さっているからです。新しい人の甦り、それは主イエス・キリストの恵みによって心から神を喜び、神の御心にしたがって、あらゆる良い行いに生きることです。そのために、私たちが先ず第一にすべきことは、命が与えられ、生かされていることを感謝することです。そして毎日を感謝するためには、常に自分自身を省みて、悔い改めを忘れないことです。今日の箇所のファリサイ派や律法の専門家には、良い行いをしようとする熱心な思いはありますが、自分の生を悔い改めるところが全くありません。悔い改めというと、何だか暗く後ろ向きなものを感じる方があるかもしれませんが、そうではなく、悔い改めることを喜ぶのです。悔い改めをすることで、その罪が赦されていることを実感することができます。そうすると、悔い改めることが喜びであり、感謝になっていくのです。いつも感謝している人は、いつも悔い改めている人です。悔い改めている人は、いつも感謝に向かっていきています。主イエスと敵対するのでなく、主イエスと共に生きる生き方を選び取る者は、感謝と悔い改めを第一とするものです。お祈りをします。


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