「心安かれ、立て、汝を呼びたもう」


 マルコ10章46〜52節 
 2007年7月22日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。今日の箇所はイエスさまのところに一人の盲人がやって来た話です。その盲人の名はバルティマイ。彼はイエスさまから「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、癒され、見えるようになりました。

この物語の舞台となっているのはエリコの町です。時はユダヤ教最大の祭りである過越しの祭りが近づいておりました。この町はエルサレムから30キロほど東北に位置しており、交通の要衝であったことからも、多くの人で賑わっていたことだと思われます。エルサレムへの巡礼の旅の最後に、ここで一泊して、エルサレム入りの準備をしたと言われています。あの有名なヘロデ大王も冬の別荘をここに造ったとも言われていますし、多くの祭司たちもエリコの町に住んでいました。実際にエルサレムへ通ずるエリコ街道を通ってエルサレムに務めに出ていたとも考えられております。過越しの祭りが近づいて、巡礼たちが通る、また祭司たちも総動員されますから、それらの人びとが群れをなすようにして、エルサレムへの道を急ぐ。そのエリコの町を出たところの道端に物乞いをする人たちがずらっと並んでいたその中に、今日のバルティマイが居ました。

これは推測の域を出ないことでありますが、この時のバルティマイの心は落ち着かなかったのではないかと思います。あの噂に聞く主イエスに出来ることならば、目を見えるようにしてもらいたい、そのことを一心に願っておりました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」。ダビデ王の子孫、新しく来られた救いの王であるならば、その力をもって、私を憐れみのうちにとらえ、この目を開いて下さい、と叫び続けました。それを聞いた人々は黙らせようと彼を叱りつけます。バルティマイは無視されることには慣れていたと思いますが、この時の彼には大きな不安があったと思います。ここでイエスに通り過ぎられてしまったらどうしようもないと思っていた。それゆえに、彼は人々からどんなに叱りつけられようとも、必死で叫び続けたのです。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と。そんな必死な者の叫びを主イエスが無視されることはありませんでした。主イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃったのです。

今日の宣教のタイトルは、この時の人びとがこの盲人への呼びかけの言葉である49節の「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」の文語訳聖書をそのままとったものです。口語訳聖書では、ここは「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」とされていました。最初の「安心しなさい」は「喜べ」と訳されていたのです。どちらが正しいということはありません。いずれの訳であっても間違いだとは言えませんし、さらに言うならば、ここで用いられている言葉は、別な箇所では「勇気を出しなさい」とも訳されています。実際、この言葉を聞いたバルティマイは50節を見ると「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とありますから、躍り上がるほどの思いになったのですから、「喜べ」と訳した方がよさそうにも思えます。しかしそれを敢えて、新共同訳を訳された方は、「安心しなさい」とされたのはどうしてなのか。

先ほども言いましたように、彼は主イエスの前に出られないのではないかという不安の中におりました。その彼の思いを受け止め、イエスのところに行くように促した言葉がこの「心安かれ」であったことを示そうとされたのではないでしょうか。不安な心でいる時に「安心して行け」と促されることは大きな励ましとなります。そのような安心を呼び起こす言葉であったことを訳しだそうとしたのではないかと思います。

この安心は、自分の中に根ざす安心ではありません。自分の中には不安があるのです。何故呼ばれたのだろうか、自分はそこへ行けるだろうか。行く資格が自分にはあるのだろうか。さまざまな不安や疑い、心配を抱いている時に、「心安かれ、行け、汝を呼びたもう」と言われるのは、大きな励ましと安心な思いを与えてくれたことだと思います。その安心させてくれた根拠は自分の中にはないが、あのお方が、主イエスが、あなたを呼んでおられるのだよ、主イエスが来るように行って下さっているのだから、安心して、信頼して行きなさいと言われているのです。これはただ一人、目の不自由な男に、ある瞬間にだけ投げかけられた言葉に留まらず、私たちが今でもいつも聞かされている、また聞きたいと願う、慰め、励ましの言葉であります。私たちも礼拝が終わると、それぞれの自宅に帰って行きます。その時に「心安かれ、立て、汝を呼びたもう」と、声を掛けられることで、立ち上がることが出来るのです。

この時の主イエスはバルティマイの所に、ご自分の方からは近づいてはおられません。声が聞こえた時に、立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」とおっしゃって、バルティマイにご自分のところに来るように促されています。皆さんはこのことをどのように読まれるでしょうか。目の不自由な人のことですから、人びとが手助けして主イエスのところに連れて来たのだろうと読むことが出来るかもしれませんし、実際はそうであったかもしれません。しかし、今回ここを読んでみて、今の私には、主イエスはこの人に、独りで立ってここへ来るようにと招かれたように思えるのです。

 エレミヤ書29章に次のような言葉があります。29章の12〜14節です。お聞き下さい。

「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば、見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」

 ここでは主イエスは、ご自分の名を一所懸命呼んで求めているこの男を立たせたかったのではないでしょうか。主イエスの方でも、熱心に求めて、バルティマイに自分の足で立って、来させたかったのではないだろうか。このエレミヤの言葉通りに、熱心に尋ね求めるならば、「わたしに出会える」という体験を求められたのではないかと思うのです。

 バルティマイは「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスのところにやってきました。これも何気なく読み過ごしてしまいそうなところですが、これはただ単に身に着けていたものを捨てたというだけでなく、地面に敷いて物乞いをするのに使っていた商売道具を脱ぎ捨てたことをも意味します。ですから、それは今までの生きかたを変えることの表明でもあり、それまでに頼りとしていたものを捨て去ったことをも意味しております。

 主はそのバルティマイにおっしゃいました、「何をしてほしいのか」。これは言わずもがなな質問のようにも感じられるかもしれません。彼の願いは明らかで、聞くまでもないことも思えるからです。しかしここで、主イエスは敢えて「何をしてほしいのか」と確認というよりも、自分の口でその願いの言葉を言わせておられます。「先生、見えるようになりたいのです。」彼はこの言葉を告げるために、必死で叫び求めたのです。来る日も来る日も、主イエスと出会える日を願って、待ち続けたのは、この言葉を主に告げて願いを叶えてもらうためであったのです。52節で主イエスは、バルティマイに「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と応えます。主はバルティマイの言葉の中に、彼のイエスに対する信仰を見てとられました。それはその信仰告白の言葉を、主イエスが全面的に受け入れられたことを意味しております。

 主はただ、「行きなさい」とだけおっしゃっている。それは「あなたはもう自由に歩ける、独りで行ける、あなたの信仰があなたを救い、あなたを解き放っている。主イエスの憐れみによるバルティマイへの全面的肯定の思いがそこには込められています。

 52節「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」

 バルティマイはただ、目を見えるようにしてもらっただけではなかった。彼は、「道を進まれるイエスに従った」のです。この「道」というところは、「道にあって」「道の中で」という言葉です。ただ「エルサレムへの道」というのではありません。エルサレムに進んで行かれる「主イエスの道」です。その道に立って行かれる、歩いて行かれる主イエスの後にこの男がついて行ったのです。今日の話の後の11章は、主イエスがエルサレムに入られた、いわゆる受難物語が始まります。この道こそは、十字架の道にほかなりません。バルティマイはその十字架の道に従っていった。十字架で死ぬために入って行かれたエルサレムへの道を進む主イエスの弟子となっていったのです。

 今日の話の前のところには、12弟子のうちのゼベダイの子であるヤコブとヨハネが、自分たちの願いを告げている話が載っています。主が栄光を受けられる時に、自分たちのことを覚えていて右と左に座らせてほしいという、主イエスの十字架の意味が全く分かっていない願いです。この時にも、主は二人に「何をしてほしいのか」と尋ねています。その主の尋ねに対する彼らの願いと今日の箇所でのバルティマイの願いは余りに対照的です。それに対する主の受け応えも対照的に思えます。私たちは一体どっちでしょうか。

このバルティマイの話は私たち一人ひとりの話です。「心安かれ、立て、汝を呼びたもう」との呼びかけに応えて、主イエスのところに行き、主の進まれる道を主イエスに従っていくものでありたく願います。

お祈りをいたします。


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