「聖書の言葉が実現するために」


 マルコ14章43〜50節  
 2007年7月29日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さんお帰りなさい。梅雨明けして以来、非常に暑い日が続いています。皆さんの体調維持管理は大丈夫でいらっしゃるでしょうか。一昨日、私は、午後から市役所に行く用事があり、炎天下の中、自転車を走らせて市役所に行きました。確かに軽く考えてしまっていたのですが、水分を摂らずにいたら、途中で脱水症状をおこしそうになってしまいました。それも一種の熱中症だったようです。炎天下の中を外出しないといけないことがありますが、暑さを防ぐために帽子を身に着ける、適度な水分を補充するなど、心がけることが求められます。今日も一日暑い日となるようです。どうぞ体調維持にはくれぐれもご注意下さい。

さあ、暑い中ですが、今日もご一緒にみ言葉から学んでいきたいと思います。さて、今日の話はイエスさまが裏切られ、逮捕される場面です。ここにはもろくも崩れ去った人間たちの姿が描かれております。内にあった信念も自負も使命感も忠誠心も何もかもが跡形もなく崩れ去ってしまいました。他でもない12弟子たちのことです。


主イエスはここに至るまでに三度ご自分が苦しみを受けて殺されることを弟子たちに告げました。そしてこの14章の27節からのところでは、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と、ペテロを始めとして12人が、イエスの歩もうとされる道について来れないことを予告します。これを聞いたペテロは31節で、力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。そして「皆の者も同じように言った」と記されていることからも、その気持ちは全員が同じだったようです。しかしその彼らの忠誠心というか、信念、自負も、主に従うという使命感等がどれほどもろいものであったかが、この主イエスの逮捕の場面で明らかになります。

今12弟子を皆同じように語りましたが、一人だけ思いの違う者がおりました。言うまでもなくイスカリオテのユダです。彼はこの時までに、祭司長たちにイエスを引き渡し、その見返りとして金銭を受け取る約束を取り付けていました。そのユダが進み出て、前もって決めておいたようにイエスに接吻します。その合図を受けて、人びとはイエスを捕らえました。イエスはユダの心にある思いを全てご存じでした。しかしユダは最後まで弟子としての仮面をかぶったまま、親愛の情の表現である接吻をもって、イエスを引き渡したのです。

ユダが何故そのようなことをしたのか。古来よりさまざまなことが言われ、憶測されておりますが、聖書にはその理由についてはほとんど記されておりません。ただルカによる福音書の22章3節に「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とだけ書かれています。そうとしか説明が出来なかったのでしょう。ユダは最初からイエスを裏切るつもりで、イエスに従って行ったのではなかったでしょう。彼なりのメシア、救い主像を抱いていたのですが、それと実際のイエスの行動とのギャップに苦しんでいきました。そこにユダの苦悩がありました。またそのことをご存じであったろう、主イエスの苦悩がありました。

他の弟子たちにしても、主を裏切ることなんか全く考えていなかったことだと思います。「たとえ御一緒に死なねばならなくなっても知らないなどとは決して言いません」とペテロが言った時も虚勢をはっていたわけではありませんでした。心底そう思っていたのでしょう。自分たちを導いてくれる主イエスを心から慕っていた、どこまでもこの先生について行こうというのは彼らの願いであり、本心でした。

しかしそんな彼らがどうなったか、マルコは実に淡々と50節で「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と語っております。彼らの使命感も忠誠心もイエスへの信仰も、そのときには何一つ、彼らが逃げ出すことを引き止めることは出来なかったのです。それらもあっけないほどに、周囲の状況次第でもろくも崩れ去ってしまったのです。これが人間の弱さであり、限界なのです。

そんなユダや弟子たちの姿と対照的なのは、主イエスの姿です。主イエスは、近づいて来るユダと向き合い、その裏切りの接吻を受けられました。剣や棒を持って捕まえに来た人々の暴力に身を委ねられます。裏切られ、見捨てられる。まるで嵐に翻弄される一枚の木の葉のようです。しかし、その一枚の木の葉は嵐の中にあって、なぜか幹から離れない。そんな中で主は向かって来る人びとに48節で毅然としておっしゃいます、「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒に教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」

「聖書の言葉が実現するために」、そう主イエスはおっしゃいました。ここの「聖書」という言葉には複数形が使われています。どういうことかというと、これはどこか一つの聖書の箇所の言葉を指すのでなく、複数の聖書の言葉、もしくは聖書全巻を通しての言葉という意味でしょう。すなわち、神さまの御心が実現するためにこのことが行なわれたのです。神の御心が成就するために、主イエスは見捨てられたのです。この「聖書の言葉が実現するため」というのは、主イエスの父なる神への信頼の言葉です。裏切りと暴力のただ中にあっても、主イエスを立たせていたのは、自らの内側にある使命感や忠誠心ではありませんでした。主イエスはご自分の心の内にあるものによって立っておられたのではありませんでした。そうではなく、主イエスは父なる神によって立っておられたのです。今日の箇所の直前のところは、ゲツセマネの園での祈りの場面ですが、そこでは「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と主は祈られました。恐れにもだえながらも、このように祈ることの出来る父との関係こそが、ユダの裏切りの前に、剣や棒をもって捕らえに来た人々の前に、自身を立たしめたのです。

「鰯の頭も信心から」鰯の頭のように信じる対象は何でもよいのではありません。だから、私たちの信じる心が私たちを支えるのではありません。今日の弟子たちのように、信じる心などというものは、状況によってあっけないほどにもろく崩れ去ってしまうのです。人間を支えるのは、信じる心、信心ではありませんし、そのような意味での信仰でもありません。動かざる物、私たちを支えるのは、心の内にあるのではなく、外にあります。それは生ける神ご自身です。また言い方を換えるならば、神と人間との間にあるとも言えます。それは神との絆であり、神との交わりでもあります。だから、このゲツセマネの園の祈りの場面においても主イエスは、弟子たちに、「しっかりせよ」とか「心を確かにせよ」とはおっしゃっていません。38節では「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃっています。自分の内に目を向けるのでなく、神に目を向け、神と向き合うことを求められたのです。

そもそも、ペテロが三回も主イエスを知らないと言ったことや、今日の箇所の弟子たちが皆、イエスを見捨てて逃げてしまったことを、どうして聖書に書かれているのでしょうか。これは彼らにとっては恥ずべきことであるはずです。本来なら口を閉ざしたかったことでしょう。しかし彼ら、弟子たちはそのことを隠さなかったのです。恥ずかしい過去について、ふたをして記憶のかなたに閉じ込めてしまうのでなく、人びとに伝えていったからです。彼らは全くよく分かっていたのです。自分たちが使徒とされているのは、節を曲げなかったからでも、信念を貫き通したからでもないということ、そして彼らがなおキリストの弟子であることが出来たのは、自分たちの心の内にある強さによるのではないということを骨身にしみて分かっていたのです。いざとなったら何をしでかすかも分からない、そのような弱く心の不確かな者を、主イエスがその憐れみによって、ご自身との交わりのうちにおいて下さった。自分たちは主を見捨てましたが、主の方では自分たちをお見捨てになることがなかったことを。

私たちは都合が悪くなれば、状況が悪くなれば、今日の弟子たちのように主を見捨てるものであります。なぜなら、主の十字架への道はそれほど過酷だからです。しかしその過酷な道を逃げ出さずに従っていけたものだけが、神の救いに入ることが出来るのだとは、聖書は説いていません。威勢と掛け声だけは良かったけど、何のことはない、剣と棒で捕まえに来た人を前にするとあっけないほどに簡単に逃げ出してしまった弟子たちは見捨てられることはありませんでした。そんな裏切りを行なった、主を見捨てた弟子のところに、主イエスは復活のお姿を現して下さり、その罪を咎めることなく、「平安あれ」と言って、彼らのことを赦し受け入れて下さったのです。

イエスさまはこの過酷な十字架への道から逃げ出されませんでした。それがどれほど辛く苦しいものであろうとも。弟子から見捨てられ、人びとからも見捨てられようとも、また神様からも見捨てられたかのように思える瞬間にも、そこから逃れようとはされませんでした。捕らえられようとした場面においても、無抵抗なままに捕まえられたのです。それは、「聖書の言葉が実現するため」「神の御心が成し遂げられる」ためです。そしてそれこそは、私たち一人ひとりを救い出すためなのです。お祈りをいたします。


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