「皆、神の子」


 ガラテヤ3章23〜29節  
 2007年8月5日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




皆さんお帰りなさい。本日はパウロが信仰義認、イエス・キリストを信じることで義と認められる信仰義認論を強く主張しているガラテヤの信徒への手紙から、ご一緒にみ言葉に聞いていければと思います。
今回この箇所の説教の準備をする過程において、ある牧師が1974年の初頭に行なった説教の原稿をとても興味深く読みました。1974年今から33年前ですが、今よりどれほどよい時代であったかと思ったのですが、どうもそうではなく、その説教には「新しい年を迎えましたが、私たちの心にはどうもあまり落ち着かないものがある。将来に対する不安があまりにも多く語られすぎ、ここしばらくのさまざまな生活の混乱の中で、わたしたちは人間が自分の手で生活を確実なものにすることがどんなに難しいかということをいやと云うほど味わったからであろう」と書かれています。1974年は、それはちょうどオイルショックの年であったことがあげられると思います。前年に起こった第四次中東戦争の影響で原油の値段が2倍に跳ね上がり、経済が大混乱した。覚えておられる方もおられるでしょうが、紙がなくなるという不安からトイレットペーパーの買占め騒動が起こった頃でありました。
その牧師はその説教で「そういった不安からでしょうか、正月には銭洗弁天に何万も人が来て、お金を洗って行った。私たちキリスト者はそういう迷信というべき宗教心からは自由であるだろうが、私たちもそうした人びとの姿を見て、自分と何処か違うと言えるのだろうか。私たちキリスト者はそれならば、他の人々に比べて、はるかにこの世の中のことについて見通しがついている人間だと言えるか、危機だと叫ぶ声も大きいが、本当はそんなに深刻なものではないのだということを政治家よりももっと確かな目で見通しがついているから落ち着いていると言えるだろうか。」と言っています。
私たちには信仰があるから、世の中がどうひっくり返るかわからないけれども、どんなごたごたが起こっても自分の心は揺るがないと言い切れるのでしょうか。もし心が揺るがないのであれば、人間はどんな困難でも乗り越えられるものでしょう。しかし、私たちに与えられている信仰とは、そういうものなのでしょうか。そういう不動心とでもいうものを持つことを聖書は私たちに勧めているのでしょうか。
こういったことを考えていきますと、私たちにとって信仰とは何なのかと考えざるをえなくなります。そこで考えてみたいのですが、私たちは、「信仰を持っている」とか、「あの人は信仰を持っていない」といった言い方をします。また、「信仰を持つことが出来た」また「信じることが出来た」とも表現します。そこから、信じることが出来ない、信仰を手放した、捨てた、という言い方を時にします。それゆえ、信仰の有る無しや、その強さによってひどく動揺する。信仰を持てているかどうかを、一喜一憂してしまうのです。
さてそんなことを思いながら、今日の箇所を読み始めると、意表をつかれる思いになります。それは23節の最初の言葉です。パウロはここで、「信仰が現われる」という言い方をしております。ここの元の言葉は、「来た」と訳してもよい言葉が用いられています。信仰とは、どこからか私たちのところにやって来るものだとパウロは言うのです。「人間が信仰を持つようになってから」という表現ではありません。「現われる」「やって来る」というのですから、自分の方から起こって来るものではないことは明らかです。25節でも再び、パウロは「信仰が現われたので」と述べております。これは私たちの信仰理解の根本に関わる大切なことです。このことを正しく理解しようとする時、学ぶべきもう一つの大切なことは、26節にある「信仰により、キリスト・イエスに結ばれる」という言葉です。これは以前の口語訳聖書では「キリスト・イエスにある信仰」と訳されていました。「にある」と訳されている言葉は、文字どおり「中に」ということであります。これは外ではなく、まさしく「内」を意味します。彼にとっては、信仰とは私たちの内側にあるものではなく、キリストの中にあるのだと云うのでしょう。パウロにしてみれば、私がイエス・キリストを信じていますというような言い方はもう出来ない、あるいは、信仰はどこにあるかと問われれば、私の中にではない、キリスト・イエスの中にある、とそういうふうにしか言えない。私が信仰をもつようになったのか、そうではない、信仰がわたしのところにやって来た、外からやって来たのだ。信仰が自分を捕らえ、侵入して来たのだ、そう言いたいのではないかと思います。別な言い方をすることをお許しいただければ、自分の信仰の根拠は外側にある。外にあったものが私たちの存在を取り込んでしまったのです。
先週は、弟子たちが主イエスを裏切って、主の元からみんな逃げ出した話をいたしました。彼ら弟子たちは、どんなことになろうとも主と共に歩む、従っていくと口では言っておりました。しかしその覚悟はあっけないほどに崩れ去った現実がありました。私たちの信仰の根拠は私たちの内側にはないのです。言い換えれば、人間の中から信仰は出て来ないのです。人間には宗教心があるなどと、軽はずみに言ってはならないと思います。むしろ人間が持っている宗教心、これが律法をつくり、律法のとりこになってしまう。そういう宗教心をも打ち破り、打ち砕くために、信仰は現われたのだ。神と私たちを結ぶのは、私たちの立派な宗教心でも信仰心でもありません。私たちの信心では決してありません。私たちの信仰ではなくて、「キリスト・イエスにある信仰」であり、「キリスト・イエスに結ばれた信仰」です。その信仰が現われたのです。私たちはその信仰をキリストにおいて、受けたのです。自分たちで手に入れたのでも、所有したのでもありません。与えられたのです。
信仰がキリスト・イエスの中にあることを具体的に示されるのは、本日もこの後行いますが、主の晩餐であります。その時にいつも、日本キリスト教団が定めた式文を読んでおりますが、パンと杯をお分けする時に、いつも「あなたのために主がいのちを捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心の中にキリストを味わうべきであります」という文章を読ませていただいております。「心の中でキリストを味わいなさい」と促しておるのですが、これも「キリスト・イエスの中にある自分を味わいなさい」と言い換えた方がよいのかもしれないと思います。キリストの中にあるという恵みの事実を実体験するために味わうのが主の晩餐であります。キリストの体と流された血潮をいただく時、キリストが私の中に生きておられることを確信することが出来るのであります。
26節の言葉はとても味わい深い素晴らしいみ言葉です。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」
ある牧師はこのみ言葉についての説教の中で次のように述べています。「自分がこの言葉を読んで思い起こすのは、それに先立つ何週間かの間に自分を訪ねて来た何人もの人たちのことである。いろんな人たちがいろんな悩みや苦しみを持って牧師を訪ねて来て話をして行った。自分のところにさまざまな悩みを持ち込まれても、自分には知恵ある忠告をすることが出来たわけではない。ああしなさい、こうしなさいと言ってすべての悩みを解くことが出来る答えを持ち合わせているわけでもない。けれども自分はその人々と話をしながら、誰も皆神の子なのだということを心の内に繰り返していたのだ」
どんなに深く悩んでもどんなに弱さを嘆いていても、どんなに無力な牧師であっても、皆、神の子なのだと信じる、そこに既に慰めがあったと云うのであります。
「神の子」とはどういう意味なのでしょうか。今日の箇所の中で、パウロは、この神の子、というのを別な言葉で表現をいたしました。それは最後の29節の「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」そうです、「相続人」と言っているのです。私たちは皆、神の約束によって、神の財産の相続をするのだ、そしてこれが神の子であることの具体的な内容だと云うのです。何を相続するのか。キリストにあるいのちを受け継ぐのです。ヨハネの福音書3章16節の言葉「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」にもあるように、永遠の命を相続するのです。それは一人も滅びることがないためです。そのことにおいては、皆神の子なのです。そこには、ユダヤ人もギリシャ人もないのです。奴隷であるか自由人であるかの違いもないのです。男であるか女であるかもありません。そういった違い、差別はなくなりました。私たちは皆、一つなのです。まさにそこで、私たちはそれぞれの賜物、それぞれの個性を生かして、神の子として、約束の相続人としてキリストにある命が与えられて生きることが出来るのです。この大きな恵みを心から感謝したいと思います。祈ります。

2007年説教ページに戻るトップページに戻る