皆さんお帰りなさい。日本にとって、この8月は特別な月であります。世界で唯一の被爆国として、広島と長崎を経験した、そのことを深くうけとめ、世界に向けて核の恐ろしさを伝えていくそういう月であります。そして今週15日には、62回目の終戦、敗戦記念日を迎えます。憲法改定の動きのある昨今の情勢の中で、私たちは、平和の意味を考え、同時に主イエスの命令である「平和をつくり出すもの」となることが神より求められています。 平和をつくり出すこと、そのためには、戦争反対の活動をすること、また憲法改悪反対のアクションを起こすこと、それらも大切な働きであり、私たちがすべきことでもあります。国全体の動きを見定め、そのために預言者的な目を持って、そのために活動していくことも必要です。しかしそれらはある意味結果の行動です。私たちキリストの弟子となって、キリストに従うものにとっては、キリストこそが私たちの平和となって下さったことを常に忘れないことがその原点です。そのことの意味を常に考え、そこに立ち返っていくことから、平和をつくり出すものとしての歩みの第一歩が始まります。私たち一人ひとりと神との和解、そして自分の置かれている周囲の人たち、隣人との和解の中に自分自身を置くことから始めなければと思っております。 本日与えられましたエフェソの信徒への手紙は、約2000年前に使徒パウロがエフェソの教会に宛てて書いた手紙だと言われています。主イエスは十字架で死なれましたが、三日目に甦られて復活のお姿を弟子たち始め多くの人々に現されました。そのことを目撃し、証人となった弟子たちによって、主イエスは救い主、キリストとして広められていきました。小アジアの西アジア海岸に位置したエフェソの町は、大きな港があった町で、その地域の商業の中心地として栄えた都市でした。ですからこの教会には、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人以外の多くの異邦人が所属していましたが、そのため両者の間には様々な対立が起こっていました。 そもそもユダヤ教では信仰の純粋性を保つために、神を知らない、神を信じない異邦人との交わりを禁じていました。そのためエルサレム神殿には、異邦人が神殿の奥に入れないように隔ての壁が造られていました。そんなふうに異邦人との交わりを何百年も禁じられていたユダヤ人のことです。キリスト者になったからと言って、異邦人との交わりに何の抵抗もなくなるということはなく、教会の中でも互いに目に見えない隔ての壁を張り巡らしていました。そんな教会に向けて書き送られたのがこの手紙です。 14節でパウロははっきり断言しています、「実にキリストはわたしたちの平和であります」ここで言う平和とは単に「争いごとが無いこと、戦争でない状態」ということではありません。また、その関係が互いの接点のない関係なのでもありません。聖書の説く平和とは「互いに波風を立てない」という以上のこと、イエス・キリストが命じた「互いに愛し合う関係」「互いに愛し合うことによって築かれる関係」のことです。 人は何故、平和に生きられないのか、互いに愛し合う関係になれないのか、それは互いに敵意を持つからです。ユダヤ人と異邦人との平和を妨げていたのも互いに対する敵意です。ユダヤ人は自分たちが律法を守る神の民であることを誇っていました。でもその誇りは、神殿の壁のように、異邦人との間を遠ざけ隔てる敵意の壁となっていました。 この敵意は2000年たってもかわりません。私たち自身も互いに敵意を持つ存在であります。世界各国で起きている紛争は、長い間積み上げられた敵意の壁が憎しみとなって、起こっています。日本国内においても、殺し合いが多くの場所でなされています。また、弱い者への暴力の根は深く、現在の加害者がかつては被害者だったということもよくあることです。 やられたから、やり返す、断ち切ることの出来ない怒りの連鎖、憎しみの連鎖、敵意の連鎖です。これ以上、この連鎖を繰り返さないために、すべての怒りを、全ての敵意を丸ごと引き受ける人が必要だったのです。そのため、イエス・キリストの十字架の贖いが必要となったのです。 14節の二行目から 「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つのからだとして神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 キリストは、人類の全ての怒りや憎しみや敵意を、御自身のからだに背負って十字架で死なれました。2000年前のユダヤ人と異邦人の敵意だけではありません。現代の私たちが抱いている敵意、また私たちが背負い、過去の先祖たちが背負い続けてきた怒りや敵意もキリストは十字架上で全て身に受けて下さいました。そして更に、キリストが背負って下さったのは、人間同士の怒りや敵意だけではありませんでした。キリストは、私たちに対する神の怒りと敵意をも、私たちに代わって全部背負って下さったのです。ここに、人と人との和解だけでなく、神と人との和解が成立しました。そして人と人との和解は決して神との和解から生じる一つの結果としてではなく、むしろ神との和解に先立つかあるいは神との和解の中に組み込まれたものであります。神のみこころは、それぞれ神の前にバラバラだったものをキリストによって神の前に一つにして新しいものを造り上げ、それを神と和解させるというものであったのです。 この神の前に一つにして作り上げられた新しいものとは何でしょうか。キリストの十字架より以前は、ユダヤ人と異邦人が一つとされることはありませんでした。それぞれは独自に歩み、それだけでなく両者の間には敵意という隔ての壁がありました。それがイエス・キリストの十字架によって壊されて、ユダヤ人と異邦人が一つとされ、両者が一つとからだとなった。そこに造り上げられたキリストのからだこそが教会です。 パウロは3章6節で 「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じからだに属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」と言っています。 ここではユダヤ人とか異邦人の区別はありません。キリスト・イエスにおいて、一つのからだであり、共に約束に与るものとなるのです。19節のようにそこではもはや、外国人も寄留者もなく、皆聖なる民に属するものであり、神の家族なのです。 キリストは想像を絶する神の怒りを全部十字架の上で受け止めて、ご自分のものとしてくださいました。キリストのからだが、神の怒りも人間の敵意も、丸ごと全部飲み尽したのです。そしてそれらをご自分の死と共に葬った時、神と人、人と人、お互いを隔てていた敵意の壁はキリストのからだのなかで、ことごとく消えてなくなりました。そうして、神と人、人と人、お互いの「平和・シャローム」を妨げていたものは無くなったのです。 会同の前のところにも十字架があります。十字架の縦の線は、神と人との平和です。横の線は、人と人との平和です。そして縦の線と横の線が交差するところ、神との平和、人との平和が一つになるところ、それがキリストのからだです。これまで決して一つにならなかった「神と人」も「ユダヤ人と異邦人」もキリストのからだにおいて一つになっています。異なる者同士、相容れない者同士が、キリストのからだにおいて一つになって和解し、平和が実現しています。そのことをパウロは「キリストは私たちの平和です」と断言したのです。 「神とわたし」「私とあなた」その全く異なるものがひとつになるためのからだ、和解の場、それがキリストのからだであり、教会です。教会には様々な人が集まっています。エフェソの教会にはユダヤ人と異邦人がいました。私たちの教会にも、意見や立場、年齢、職業など、それぞれ異なる人たちが集っています。しかし教会というキリストのからだにおいて、それぞれ異なる人たちが、それまでとは全く違う「一人の人・キリスト」へと作り変えられていきます。そして人間のからだが、右半身と左半身がけんかしないように、キリストという一人の新しい人の中では「互いに愛し合う平和」が実現していきます。しかし、私たちがこのキリストのからだから離れてしまうならば、そこには敵意の壁が造られ、怒りと憎しみ、敵意を互いに抱く者の群れになってしまいます。 私たちは今、教会の中にいます。平和を実現する奇跡のからだ、キリストのからだの中にいます。そしてこのキリストのからだの一部分であるとき、私たちも平和を実現するキリストのからだを担っていることとなります。子どもであろうと、高齢者であろうと、日本人であろうと、外国人であろうと、からだが不自由であろうと、私たちのからだ、一人ひとりの小さな存在がキリストのからだにつながる時、私たちは平和を実現する聖なる神殿、霊の働きによって神の住まいとされていくのです。 世界平和が求められるこのとき、教会がこの世に果たすべき平和の責任は重大です。そして教会がなすべき一番の平和の業とは「私たちの平和」であるキリストを宣べ伝えていくことです。「互いに愛し合う平和」が更に大きく広がっていくように、一人でも多くの人が私たちの平和・キリストのからだにつながるように、そしてキリストのからだにつながった一人ひとりが平和を実現する現場、神の住まいとなっていくように、教会はいよいよ切実に「私たちの平和・キリスト」を宣べ伝えていかなければなりません。そして教会は、すべての敵意を滅ぼすキリストのからだを広げつつ、キリストの平和を広げ、父なる神がおられる御国を目指していくのです。 キリストは全ての敵意を滅ぼす「私たちの平和」です。日々、自分自身の中に、キリストを迎えましょう。そしてキリストのからだにつながれ、日々新しく生まれていきましょう。お祈りをします。
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