「共に食するイエス」


 ルカ24章36〜43節  
 2007年8月19日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。
キャンプの話  40周年に向けての話
霊による一致  目に見えるものはどんなに違うように見えても
        その違うことを用いて神さまは、私たちを用いて
        キリストの体として教会を整えていかれる

 さて、本日与えられました聖書の話は、復活のイエスさまのお話ですが、とてもユニークな話です。復活のイエスさまが弟子たちの前に現われると、弟子たちはまるで幽霊でも見たかのように恐れおののきました。彼らは主イエスの復活を信じることができず、そのため実際甦られた主は何の力にもなれませんでした。彼らに「亡霊には肉も骨もないが、私には手や足がある」と言って、御自身の手と足をお見せになりましたが、弟子たちはまだ不思議がって信じられませんでした。そこで主イエスは何か食べる物を求め、弟子たちが差し出した焼き魚を食べられた、そんな話です。こんな話がわざわざ聖書に記されているなんて、何とも不思議です。この福音書を書いたルカは、イエスさまの復活は単なる幻ではなく、ちゃんと肉体をもって甦られたことを表すために、わざわざこんな記事を残しておいたのでしょうか。今日はそのことのもっと積極的な意味についてご一緒に考えいきましょう。

 甦られたイエスさまは弟子たちと食事を共にされた。食べることは生きることに直結します。食事は命に直接つながります。私たちが住んでいるこの社会は食べ物が満ち溢れています。いつでも好きなときに好きなものを食べたいだけ食べることができる社会だと言えます。そういう生活を当たり前のようにしている私たちには、食べ物が命に直結しているという意識を持つことが薄いのかもしれません。食べることに窮する経験をした時に、食べ物のあることに対する感謝の思いがより強く与えられ、また食物を口にすることが生きることに直接結びついていることを思い起こしてくれるのかもしれません。

 国際飢餓対策機構というのを御存知でしょうか。世界の食糧や飢餓の問題について真面目に取り組んでいる、大阪に本部のあるNGOです。そこが出されているビデオで衝撃的なシーンを見たことがあります。アフリカの旱魃にあって、草一本生えていない土地で、子どもたちが柔らかそうな小石を拾ってきて、つまんでは口に入れていくのです。あまりの空腹に耐えかねて、少しでもお腹を満たそうと、小石を食べていく子どもたち。彼らにとっては、食べることが正に生きることであり、生きるということは食べることなのです。甦られたイエスさまは食事をされました。命があるということを食事と云う行為で示されたのではないでしょうか。食べることは命に直接つながっています。私たちはもっと真剣に食べることを食事ということを考えなければならないでしょう。

 イエスさまは弟子たちと共に食されました。今日の箇所の中では、イエスさまが焼かれた魚を一人で食べられたかのように書かれていますが、これはおそらく弟子たちが食事をしている最中の出来事だったろうと思います。そうでなければ、いきなり焼いた魚を一切れ、イエスさまの前に差し出すことは困難だったでしょう。この一緒に食事をするということはとても大切なことです。一時期、個食ということが大変問題になりました。一人で食事をとる。それは味もそっけもありません。家族がいても別々に食事をとるか、あるいは一食に食事をしていても全くバラバラに食事をする。テレビをつけっぱなしにし、会話はしない。勝手に思いのままにただ口に入れるだけ。そんな家族が増えています。近頃はレストランで食事をしていても。親子がそれぞれ携帯でメールを打ちながら全く会話無しで食事をする、そんなケースもあるようです。しかしこれは問題です。

 甦られたイエスさまは、弟子たちが食事をしている席に現われ、一緒に食事をなさいました。共に食すること、一緒に食事をとること。食事は命に直結していますので、一緒に食事をする場所はまさに命が通い合う場所ともいえるでしょう。食事をしながら会話するときに、命につながる良い交わりが与えられます。日本には昔から「同じ釜の飯を食った仲」という言葉があります。一緒に食事をすることで、一体感が生まれ、命を通い合わすのです。一緒に食事をするということは、食べる物を分かち合うことになります。一人がたくさん取って食べてしまえば、後の人たちが困ってしまいます。たくさんある時はたくさん分けることが出来るし、少ししかなければ少ししか分けられない、当たり前のことですが、そうやってみんなで分かち合っていくことが共に食事をすることをより深くさせてくれます。自分が持っている物を惜しみなく出して、人が持って来た物に自分も与りながら、そうやって惜しまず出すことと、人の恵みに与るということであります。主が自らの体でもって私たちに与えて下さった主の恵みを、そして主が受けられた痛みを共に分かち合うのです。

 教会では愛餐会というのをよく行ないます。正に、共に食事をするのです。日曜日の礼拝は中心でありとても大事ですが、ある意味それと同じくらい重要なのが、愛餐会、食事会です。主にある家族として、食事を共にする、そのことを通して、教会の輪、教会員同士、そして神さまとの関係が強固なものとされていきます。他の兄弟姉妹の喜びや恵みを共に分かち合い、また兄弟姉妹が抱えている悲しみや痛みを共有する。霊による一致、とだけ言われても、その意味についてもひとつよく分からない、実感としてつかみにくいと思いますが、その第一歩は共に食事をすることから始まります。昨日もお昼からそして夕食にはカレーを共にしました。今日も朝食、そして昼食もお弁当を共にします。このことを通して、交わりを深め、そして共に命を分かち合う、そういった群れ、それが教会であります。
最後に、甦られたイエスさまが食事を受けられたことのもう一つの大きな意味について考えて終わりたいと思います。それは当然のことかもしれませんが、ここではイエスさまは与えるのでなく受ける側におられたことであります。甦られたイエスさまは、弟子たちに食事を与えて下さったのではありませんでした。そうではなく、復活のイエスさまは、弟子たちから食事を与えられるお方として、ここに登場されています。イエスさまはサービスを受けなければならない側におられる。与える側ではなく、受ける者として、イエスさまは弟子たちが配る食事を必要としているお方として甦られたのです。

 先ほども紹介した日本国際飢餓対策機構で長らく主事をされていた神田英輔先生から聞いた話に次のようなものがあります。南アメリカのインディオたちのところで食糧を配給していたときのことです。たった一つのパンと一杯の水を求めて、何十キロの道のりを何日もかけてインディオの人たちはやって来る。彼らはその道のりの中でぼろぼろになってやって来て、列をなして並んでいたそうです。そんな彼らの列の一番後ろにイエスさまが同じようにぼろぼろになってごつごつした手で「私にパンをください」と求めてこられる姿を見たように、神田先生は感じられたそうです。神田先生は非常なショックを受けられた。それまで先生がイメージされていたイエスさまは、輝くような白い衣に身をつつんで天から下ってこられる姿だったからです。ぼろぼろの格好をしてごつごつの手を差し出しながらパンを求めるイエスさまがそこにおられたのです。

 今日の箇所のイエスさまも、弟子たちに食事を与えるお方ではなく、弟子たちから魚を受け取るお方でした。甦られたイエスさまは、私たちの手を必要としておられます。復活の主イエスは私たちの働きを待っておられるのです。教会は、イエスさまから多くの恵みと導きを得る場であります。しかしそれだけが教会の全てではない。私たちの助けを必要しているイエスさまがどこかにおられるのです。その主を探し出すことが、主から求められています。それは、今も命のことで悩んでおられる方、食べることで困っておられる方々のところ、そんなところに復活の主イエスはおられるように思います。そこで私たちは、彼らと共に、そして私たちと共に食事を分かち合って下さる首都、命を分かち合って下さる主と出会うことができるのです。
お祈りをしましょう。


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