「寄留者、孤児、寡婦と共に」


 申命記24章17〜22節  
 2007年8月26日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。先週は、修養会のために、本川の木の根ふれあいの森に行ってまいりました。今年はゆったりとしたプログラムにして、山の中でみんなでのんびり過ごそうと、あまりきちきちにプログラムを入れませんでしたので、ゆっくり過ごせたのではないかと思います。ちょっとした怪我がありましたが、大事には至らず、子どもたちも楽しく過ごせたのではないかと思っております。さて、8月も最終週となりました。まだ残暑は続きそうですが、今日もご一緒に聖書のみ言葉から聞いていきたいと思います。

 昔「大きいことはいいことだ」というコマーシャルがありましたが、世間は強くなること、大きくなることを目指すものです。バブル崩壊以後の経済の低成長時代となり、そこまで露骨には言わなくなったものの、日本にも格差社会が広まり、勝ち組・負け組という言葉に代表されるように、この社会の中でのして勝ち上がっていくことが第一のこととされているように思えます。金持ちになり、権力を保持し、多くの名声を集めることが、社会で生き残っていくために必要なことだとされています。しかし世の中の富や力は限りがあり、自分が多くのものを持つためには、周囲の人との競争に勝利しなければならないこととなります。そのように自分がより多くのものを持とうとするならば、周囲にいる人たちは、友人は言うに及ばず兄弟であっても、競争相手となってしまいます。それは言い方を換えるならば、敵でもあります。そうなれば奪い合うことになり、更に激化すれば、相手を殺してでも奪うことになってしまいます。

 本日与えられました旧約聖書の申命記は、創世記から始まるモーセ五書と呼ばれる律法の書の最後の書簡です。申命記とは「かさねて命じる」という意味の漢語聖書からとられています。モーセを仲介として与えられた律法は出エジプト記からレビ記、民数記に記されていますが、荒れ野を40年さまよった民たちを指導したモーセの最後の言葉をまとめたのが申命記です。ですからこの申命記は律法をまとめたものと言えます。

 律法と聞くと、何だか血も涙もない冷酷無比な掟が書いてあるかのように思いますが、実際読んでみると、一概にそんなことは言えないことが分かります。先ほどお読みいただいた17〜22節には、寄留者、孤児、そして寡婦の権利をゆがめてはならないとあります。寄留者とは、ユダヤ人と共に住んでいる外国人のことです。彼らは様々な権利と義務は有していましたが、完全な市民権を所有してはいなかったようです。孤児や寡婦を含めて、彼らは社会的弱者です。これより前の6節を見ると、「挽き臼あるいはその上石を質に取ってはならない。命そのものを質に取ることになるからである」とあります。また、10節以降には「隣人に何らかの貸付をするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。もし、その人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることが出来、あなたを祝福するであろう。」と命じられています。当時は穀物が主食でしたから、上石を質に取られるとその日のパンを焼くことが出来なくなってしまいます。また、布団代わりの上着が最後の担保という場合もあり、日没には返すようにとのことです。いずれも、貧しい人、弱い人の命を守ることを旨としています。

 19節からの規定も同じです。畑でもオリーブの実を打ち落とす時も、ぶどうを摘む時にも、全てを取り尽くすのでなく、寄留者、孤児、寡婦のために残しておくようにと命じられています。畑に出来た収穫物は、その持ち主が全て占有してよいのではないというのでありましょう。お金も作物もそれを持っている人のものではなく、それらは神のものであり、所有者はその管理を委ねられているだけというのが、ここでの教えであります。畑の穀物やぶどうも、その畑の持ち主のものではなく、その作物を育てた神のものであり、それはみんなが分けて食するために神が育てたというのです。何もかも自分のもの、自分だけのものとして独り占めしてしまうことに対する戒めであります。そしてこれは弱者や貧しい者に対する単なる憐れみではないのです。
その根拠が今日の箇所に繰り返し述べられています。18節「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行なうように命じるのである。」22節「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行なうように命じるのである。」
十戒の教えの最初は何だったでしょうか。それは申命記5章6節にあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 ユダヤ人のことをヘブライ人とも言いますが、このヘブライは「他方から来た者、渡って来た者」という意味の言葉で、「ユーフラテス川のかなたから、またカナンの地から渡り歩いて来た根無し草」というような侮蔑的な響きが込められているのだと言われます。エジプトの国においては、正にユダヤ人は寄留の他国人でありました。その彼らを救い出したのは、主ご自身でした。そのことを忘れることなく、いつも思い起こすべきことを主は命じているのです。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言われます。しかし主は、イスラエルの民に、そのエジプトでの苦しかった体験を忘れることのないように、寄留者や孤児、寡婦のことを思いやる心を持つようにと命じています。一束の穀物を彼らのために畑に残しておくことが、彼らのためというだけにとどまらず、あなたたちの祝福となるのだと告げるのです。それは主への感謝です。主がエジプトの奴隷から解放されたことを感謝すること、常に主を忘れることなく歩むことがあなた方の祝福となるというのです。神を愛することと人を愛することは一つのことなのです。そのように社会的弱者と共に生きることが、解放の主と共に歩むことにつながります。

 二つの国がありました。一つの国はとても豊かな国で、その国に生きる人はみんなそれぞれが多くの物をもっており、生活するのに十分な物が一杯ある国でした。もう一つの国は、一人ひとりが十分なお金も物も持っておらず、豊かな国よりは貧しい状態にありました。物もお金も十分にあるとは言えない国でした。そしてこの両方の国には、1メートルもあろうかというとても長い箸が与えられていました。そしてこの箸を使って、いずれの国も物を食べなければならなかったのです。豊かな国には食べ物もたくさんありましたが、そこの人々はその長い箸を使って、何とかして自分の口に食べ物をいれようとしましたから、長い箸ではうまく口の中に食べ物を入れることが出来ません。そのため、豊かな国の人は食べることが出来ずにいたのです。一方、貧しい国には食べものは豊かな国ほどにはありませんでした。この国の人たちも、この箸を使って食べないといけなかったのですが、彼らは皆が食べることが出来たのです。同じ箸だったのに、何故でしょうか。それは、この貧しい国では、皆がその箸を使って自分の口に入れるのでなく、周りの人の口に入れる、すなわち互いに食べさせ合ったのです。1メートルもあろうかという長い箸では、自分の口に入れることは出来ないのですが、隣人の口に食べさせるためには適当だったのです。

 これは一つのたとえ話です。しかし、私たちが生きていくべきうえにおいてはとても示唆に富んだ話だと思います。隣人との関係を大事にして生きること、それこそが喜びであり、祝福を受ける道となり、真の意味での豊かな生き方になります。全てを独り占めして自分の物とする生き方では祝福を得ることは出来ません。どんなに少ない物であっても分け合う相手を持っているかどうかで、その人の人生が豊かかどうかが決まるのではないでしょうか。

 マザーテレサの話の一つだったと思いますが、ある貧しい家庭に一袋の食糧を持って行った時、その家庭の人は受け取るとすぐに裏の家に行ったと言います。何をしに行ったかと思ったら、その食糧を半分、裏の家の人に分け与えたという話を聞いたことがあります。多くの物を取り合い、奪い合って、競争する社会と、少ない物であっても分け合おうとする社会とどちらが本当の意味で豊かな社会なのでしょうか。

 社会的弱者と言われる人たちがどれだけ大切にされているか、その人たちの権利がどれだけ守られているか、それらの人たちと共に生きようとしているか、それがその国の豊かさの指標となるように思います。お祈りをします。



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