「心の包皮を切り捨てよ」 


 マルコ10章1〜12節  
 2007年9月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。今日の話の発端は、主イエスご自身が始められたわけではなく、主イエスを試そうとしたファリサイ派たちの質問に始まっております。離婚は近年どんどん増えてきてはいますが、これは余談になりますが、実は明治時代の日本は今よりも離婚は多かったようです。これは女性の権利が認められておらず、男性からの申し出によって簡単に離婚させられることが多かったことによります。

 そのような状況は、このイエスさまの時代のユダヤにおいても同じであったようです。当時の律法の規定によると、離婚は男性の方からしか申し出られませんでした。女性の方から離婚を切り出すことは出来なかったのです。そしてこの頃、ファリサイ派の中で論争されていたのは、どういう理由であれば、男性は正当に妻と離縁出来るかということでありました。その際の材料となったのは申命記24章1節の律法の規定でした。ご一緒に見てまいりましょう。旧約聖書318ページ、申命記24章1節です。

 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
「妻に何か恥ずかしいことがあれば、離縁状を書いて去らせてよい」ということです。この離縁状が法的な手続きとなっていて、これを所持している女性は、自由に再婚することが出来ました。ですからこのシステムはある意味弱い立場の女性を保護することにもなっていました。が、問題は、妻を離縁してよいとされる「恥ずべきこと」とはいったいどんなことか、であり、それが議論の種となっていました。それには大きく分けると二つあったようです。一つは「恥ずべきこと」とは姦淫のことと限定して、妻の姦淫は離婚の正当な理由になるというものでした。それに対して、「恥ずべきこと」をもっと広げて、たとえば妻が料理が下手でいつも焦げ付かせてばかりいる、その程度のことであっても、離婚の理由として十分だと、そんなことが言われていたそうです。

 そんな論争にイエスを巻き込もうとして、ファリサイ派は近づいてきて「夫が妻を離縁することは、律法に適っているのでしょうか」と質問したのです。彼らは、別に離婚の是非を問題にしていたのでなく、そのための正当な理由を種に、イエスが何と言うか試してやろうとそんな思いでいたのでした。それに対して主イエスは、「モーセは何と命じたのか」と切りかえします。その時のファリサイ派の答えのもとになったのが、申命記24章1節でした。「離縁状さえ書けば、モーセも離婚を許可しています」と、この申命記の規定をそう解釈したのでしょう。しかし、これは戒めを戒めとして読まず、どこまでが許されるかという許可の限界として読んでいます。私たちもついこのような読み方をしてしまっていないでしょうか。安息日の規定などはその際たるものですが、安息日は神がこの天地を造られて7日目に安息されたことをおぼえて過ごすことに、その精神があるものです。しかしその精神を忘れて、「何と何はしてはいけないが、これとこれはしても構わないのだろう」というように解釈してしまう。安息日には何メートル以上は歩いてはいけないが、何メートル以内なら歩くことは許されていると、そのことにのみ思いを寄せる。そういう受け取り方であれば、律法が本当に言おうとしていることから外れてしまいます。この離婚の教えにしても、離縁状さえ書けば、離婚できるという、そういうことがこの律法の本質ではないはずであります。

 そのことに気づかせるために、主イエスは「あなたたちの心が頑ななので、このような掟をモーセは書いたのだ」とおっしゃいました。これもよく誤解されるのですが、人々が離婚したがって頑固だから、妥協してモーセが離婚を認めたのだと、そうおっしゃっているのではありません。そうではなく、人間の頑固さ、かたくなさという人間の罪が際立たせられるために、この律法が定められたのであります。

 つまり、人間が頑固だから、神さまが妥協されて、「離縁状さえ書けば離婚してもよいよ」とおっしゃっているのではなく、そういう人間のかたくなさ、罪が露になるように、モーセは離縁状を書いて離縁することを認めたということなのです。逆に言えば、人間が頑固でなければ、離婚の教えは必要なかったというわけです。
この頑固という言葉を理解するために、引用したい旧約聖書の言葉があります。今日の宣教のタイトルにもしましたが、申命記10章16節の言葉です。298ページです。
「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。」
この言葉はエゼキエル書にも繰り返される、旧約聖書の教えの中で大変大切な言葉であります。心が皮をかぶっている。その皮を取らなければならない、皮をかぶった閉ざされたかたくなさは固いのです。閉ざされているのですから、受け入れないということです。10章12節以下を読みます。

 「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。」
神が主であることに心を閉ざして、心が頑固なまま受け入れない。その主なる神が命じておられる戒めを主に対するひたすらなる愛をもって受け入れるということをしない。神と共に生きることを拒否する。そのときどうなるか、17節以下をみましょう。
「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。」
主なる神を心から受け入れる者は、共に生きている者を受け入れることが出来るのです。先週も見ましたように、弱い立場の代表である孤児、寡婦、そして寄留の他国人にも心を開いて受け入れることが出来る。主イエスが問うておられる頑固さは、その心を開かないかたくなさを意味するのです。

 さらに、主イエスはどうしたら離婚出来るかというファリサイ派の問いから結婚とは本来どういうものであるかを示すために創世記までさかのぼって話されました。6節「しかし、天地創造の初めから神は人を男と女にお造りになった。」これが先ず一つのことであります。何気なく読み過ごしてしまいそうですが、これは大事な教えです。男だけが人間ではないのです。男性中心の社会であったゆえ、当時の男性たちは男しか人間でないと考える傾向が顕著にありました。しかし、人間は最初から女と男に造られた。男であること、女であることは、人間にとって不可欠のことであります。自分が人間であるということを大切に受け入れる人は、男であり、女であるということを大切に受け入れるのです。お互いにそれを大切にするということなのです。父母を離れて自立する。二人の者がお互いに一つになる。男が女を取り込むのでも、女が男を取り込むのでもなく、自立した二人が一つとなる。そのように神が合わせられたものを人が離してはならない。主イエスは結婚をそのように教えられているのです。
この言葉が人々の心にすんなりと入るのは、結婚式の時でしょう。新郎新婦はじめ、家族もみんなそうあってほしいと思う。結婚するときから、もしかしたら離婚するかもしれないと思いながら結婚する人はいないでしょう。誰もが一生この相手と共に生きると信じて、神が合わせたということを喜ぶ瞬間であります。

 しかし、いつしかそのような喜びが束縛へと変わるような、人の罪ゆえに、そんな状態に陥ってしまうことがあります。そして残念ながら離婚に至ることもあれば、離婚にはならなくとも、ただひたすら我慢して一緒にいるということになる場合もある。それゆえに、この主イエスの言葉を聞くたびに、自分の弱さ、頑なさ、罪に悲しい思いを感じる、そういう人生を歩む方もおられるだろうと思います。

 旧約聖書は神さまがイスラエルを愛し選び、まさにイスラエルと神さまとの関係を結婚にたとえて語っています。しかしイスラエルは夫である神を裏切り、他の男に走り、裏切りを重ねた。それでも父なる神は何度もなんども妻であるイスラエルが悔い改めるように、神に立ちかえるように、預言者を遣わし、呼び求め続けました。しかしイスラエルは帰っては来なかった。そして最後に、神さまが断腸の思いで離縁すると告げる、そんな箇所が何箇所も旧約聖書の中には出てまいります。しかしそれでも神はイスラエルをお見捨てになることはありませんでした。神さまの御独り子であるイエス・キリストをこの地上に送り、そして十字架の死を通して、その罪を贖い、再び自分の妻として買い戻すという恵みを示して下さったのです。同じように、今私たちが神の花嫁と言われる教会に導かれている、主イエスと一緒になることが赦されているのは、それはもうただ恵みによるとしか言いようがないのです。
それゆえに、今日の主イエスの離婚の教えもまた、主イエスの十字架を通して、その光の下で読まなければならないと思います。これをまるで律法のように振りかざして、人を裁くものとして用いてはなりません。そうではなく、まさに私たちの罪が露にされる言葉として、皮をかぶってしまっている心、私たちの頑なさ、頑固さ、罪を背負って十字架について下さった、その十字架を見上げさせ、悔い改めに導く言葉として、この言葉を聞くこと必要があると思います。

 赦されているから離婚でも何でもしてもいいということではありません。今日のマルコの11節以下で、主は「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」と言われています。十字架によって罪赦されているから、自分の好きに離婚してよい、姦通の罪を犯してよいことにはならないのです。赦されているから、離婚でも何でもよいということではなく、赦されているからこそ、謙遜にこの主の夫婦の教えに耳を傾けて、悔い改めの心をもって、この教えに生きる者としていただきたいと、そのように祈り願って歩みたいと思います。

 そうせねばならないから頑張るのではなく、十字架を見上げて、赦しの恵みに押し出されて、主イエスの言葉に誠実に従うものでありたいものです。そのように祈り願って、今日のこの離婚の教えに耳を傾けていきたいと思います。祈ります。



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