皆さんお帰りなさい。本日は敬老感謝礼拝です。教会の70歳以上の方たちのことを覚え、お一人おひとりの健康を願い、礼拝を献げます。この後、報告の時に教会からプレゼントを差し上げ、お祈りをする時を持たせていただきます。今年の夏は格別暑かったですし、まだ暑さは続きそうですが、どうぞお体が守られて過ごされますように。皆で祈ってまいりたいと思います。
さて本日の聖書の箇所には一人の金持ちの青年が登場します。この人は「永遠の命」を求めて主イエスのところにやってまいりました。22節の文言からも彼は、たくさんの財産を持っていた青年であったようです。そのため、この話は「富める青年」の話と言われております。彼は金持ちのドラ息子のような人物ではありませんでした。非常に真面目な誠実な青年だったようです。人生について、また人生の意味についても深く考えていたことだと思われます。彼は聖書に書いてあることもきちんと守り行なっていましたが、心には平安がありませんでした。
この青年は永遠の命を求めておりました。そしてそれを得ようとして、主イエスの所にやって来て尋ねます。「どんな善いことをすればよいのか」と。私たちも自分の人生を価値ある有意義なものとしたいと思うものであります。この青年のように「永遠の命」と意識してはいないかもしれませんが、人生をより良いものにしたい、より充実した幸せな生活をしたいと思って、そのためには何をすればよいかと思うものです。その意味では、この青年の問いは、私たちの問いでもあります。「『善いこと』をして生きたい」、そうすればそこに本当に良い充実した生活が得られる。私たちは多かれ少なかれそのように思っています。せっかくの日曜日にこのように礼拝に来るのも、そのことを学ぶ、またはヒントを得たいと思ってのことではないでしょうか。この富める青年の姿は私たちの姿に重なるように思います。
そんな青年に対して、主イエスは何とおっしゃったでしょうか。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」これが主イエスのお答えでした。「どんな善いことをすればよいか」という青年の問いに主イエスは突き放すかのような言い方をなさっています。「なぜ、善いことについて尋ねるのか」そういう問いかけ自体が間違っているとおっしゃっているのです。そして「善い方はおひとりである」と言われます。「善いこと」ではなく、「善い方」をこそ求めるべきだと主は教えておられます。「善い方」というのは当然神さまのことです。「善いこと」とは自分が何をするか、どんな善い人間になるか、そういうことを求めることです。すなわち、自分を見つめていくか、神さまを見つめて求めていくか、そのどちらを求めるのかと、主は問われたのです。言葉を換えて言うならば、自分に焦点があたっているか、それとも神さまに焦点をあてて歩んでいるかということです。
主イエスはこの青年に「善い方」をこそ見つめて求めるべきことを示された上で、「掟を守りなさい」と言われました。掟とは旧約の律法のことです。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」これらは十戒の後半の掟、人間関係についての戒めです。主イエスはそれを守りなさい、とおっしゃいました。しかしここで勘違いしてはならないのは、こういう掟を守るという「『善いこと』を行なうように」と主イエスが教えられたのではないことです。主イエスの「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」という教えは、その前の「善い方はおひとりである」という言葉に続いて語られているからです。つまり、これは「その善い方である神が命じておられることをしっかりと聞き、それを守り行なうことが大切だ」ということです。掟を守るという私たちの「善いこと」が求められているのではなく、「善い方」である神さまの下で、その神さまのみ言葉に聞き従っていくことが求められているのです。
聖書で説かれている教え、十戒や山上の説教にも「こうしなさい」とか「これをしてはならない」とありますが、それらはそれだけを単に道徳律として取り出して一所懸命に守っても意味がありません。大切なのはそれらの教えを私たちに語り、求めておられるただ一人の「善い方」、神さまとの交わりにあります。神さまを信じ、「善い方」として愛していく中で、そのみ言葉に聞き従うことです。そこで焦点があたっているのは、見つめられているのは、掟を守って「善いこと」をしている自分ではなく、まことの「善い方」である神さまなのです。
青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言います。自分の「善いこと」を追い求めている限り、「もう大丈夫」という平安や安心は得られません。自分が「善いこと」をするということに土台を置き、その上に更に「善いこと」を積み上げていく、そのような歩みには、どこまで行ってもゴールはありません。もっと、もっとしなければと考え、どこまでも不安が付きまといます。
そこで主イエスは「完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と命じました。十戒の後半の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」これをひと言でまとめるならば「隣人を自分のように愛すること」だと主イエスはおっしゃいます。そして「もしあなたがこれらの戒めをみな守り、自分の隣人を本当に自分と同じように愛しているなら、自分の財産を売り払って貧しい人々に施すことが出来るはずだ」と言われたのです。「善いこと」を行なうことを人生の土台にするのならば、その土台を完全なものにする必要があるからです。
それを聞いたこの青年は、悲しみながらその場を立ち去りました。「たくさんの財産をもっていたからだ」と聖書は語ります。これは財産のある人がそれを捨てて従うことの難しさを語っています。しかしそれは単に、お金持ちは信仰に入りにくいが、貧しい人の方が惜しむものが少ないから信仰に入り易いということではありません。彼にとってはたくさんの財産も、彼が一所懸命に努力して積み重ねてきた「善いこと」でもあったのです。それを捨てることとは、単にお金に頼ることをやめるという意味ではなく、自分のなす「善いこと」を拠り所とすることをやめることです。それを追い求めるのでなく、ただ一人の「善い方」との交わりに生きることが求められているのです。これは決して「全財産を貧しい人に施すという善いことをせよ、そうすればあなたは永遠の命を得られる」と云う話ではありません。必死になって積み重ねている自分の善い行ないという財産を手放しなさい、そうして何も持たない無一物(ぶつ)になるように、無一物になって「それから、わたしに従いなさい」と言われているのです。
神さまこそがまことの「善い方」です。そのことが、今日の13節からの子どもを祝福された話に語られています。人々は子どもたちを主イエスのところに連れてきました。弟子たちは、子どもたちが主イエスの邪魔になると思ったのでしょうか、人々を叱りつけています。ただでさえ忙しい先生をこれ以上煩わせてはいけないと思ったのでしょうし、さらに、主イエスの教えを聞いて一切を捨てて従ってきたのでもない、ただ祝福だけを祈ってもらおう、ご利益のようにお恵みだけをもらおうとしているその親の姿勢をけしからんと思う気持ちもあったのではないかと思います。
しかし主イエスは「子どもたちを来させなさい。来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものだ」と言われ、子どもたちを祝福されました。「天の国はこのような者たちのものだ」ここに神さまが「善い方」だということが表されています。これは子どものように素直で純真な者でなければ天の国に入れないということではありません。ここでの子どもたちとは、素直だとか純粋だということではなく、彼らはただ親たちに連れられて来ただけの存在に過ぎません。子どもはわがままなものですし、彼らが近くにおれば、主イエスも十分な働きが出来なかったことだと思います。また、親たちの姿勢も高邁なものなどではなく、ただ恵みをもらおうという虫のいいものでしかありません。しかし、主イエスは子どもたちをそしてその親たちを迎え入れられました。そして「天の国はこのような者たちのものだ」とおっしゃったのです。天の国はそれに相応しい「善いこと」を行なう者たちのものなのではなく、その意味では富める青年の方がずっと立派だったでしょうし、そんな真面目さや相応しさを持ち合わせてもいない、何の「善い行ない」をすることも出来ないようなもの、それこそ無一物の者を、ただ神さまの恵みと憐れみによって、招き入れて下さるのです。子どもたちとはそんな存在です。自分の意志で動いているのでもない、ただ親に連れられて来たに過ぎない、そして主イエスにただ祝福を祈ってもらう、そんな彼らこそが天の国に入るに相応しいのだと主イエスはおっしゃるのです。
神さまはそのように恵み深く憐れみに満ちた「善い方」です。その神さまの恵みと憐れみが主イエスにおいて示され、与えられています。自分の「善いこと」を追い求めるのを止めて、この「善い方」である神さまの恵みを求め、それに身を委ねていくことこそが、聖書の教える信仰にほかなりません。善い行ないという自分の豊かさにではなく、この「善い方」である神さまの豊かさに土台を置く歩みにこそ、永遠の命があるのです。私たちの命は、様々な悩み、苦しみ等によって脅かされます。しかし、主イエス・キリストにおける神さまの恵みと慈しみは永遠です。その永遠の慈しみに根ざす歩みを、始めたいものであります。
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