「天の故郷を熱望して」 


 ヘブライ11章13〜16節  
 2007年9月16日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。本日は先にこの地上での生涯を終え、天の父なる神さまの下に召された方々を覚えて礼拝を献げています。お手元に召天者の方々の名前が記された名簿があるかと思います。全ての教会がそうしているというわけではありませんが、このように亡くなられた方の写真を前に並べて、この教会も礼拝します。十数人の方の写真がここに並べられています。今はまだ人数的にこのように全員の方の写真を並べることが出来ていますが、これもだんだんと増えていけば、並べ方を考えなければならなりません。そのように召天者の方の写真の数は減ることなく、年々増えていきます。今は教会員の数よりも多くはありませんが、いずれは教会員や礼拝に来られる方たちの数よりも召天者の方の方が多くなる日が来ることでしょう。そこで今回神さまに示されたことがあります。教会の礼拝は目に見える人たちだけで守っているのではないということです。この教会で信仰生活を過ごされ先に天に召された方たち、余談ですが、カトリック教会では、召天とは言わず帰天、天に帰るというそうです。後でも述べますが、今日は宣教のタイトルでは、天の国を故郷と呼んでいますが、故郷であるならば、帰天、天に帰るという言い方の方が相応しいのかなとも思います。私たちの肉眼では捉えることは出来ませんが、この教会で信仰生活を送られた、天に召された、天に帰られた方たちも、それらの方たちも私たちと共に毎週礼拝をして下さっているのです。

 週報の巻頭言にも記しましたが、私たちはつい目に見えることにばかりとらわれて、目に見えないものによってこの世界やそして教会も成り立っていることを忘れてしまいます。そんな私たちに目に見えない世界やそこに先に帰られた信仰の先達の方たちのことを思い起こさせ、その方たちとの交わりの中に招き入れられるこの召天者記念礼拝はとても感謝なひと時です。たとえこの地上では再び会うことは叶わぬとも、天の御国で再び会えることを願う、そのお一人おひとりとの交わりこそが永遠の交わりであり、それこそが永遠の命に与っているのだということを強く思わせられます。

 本日与えられましたヘブライ人への手紙の11章は、新共同訳聖書の見出しにも書かれているように、「信仰」について記されている章です。1節では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。信仰とは望んでいることが実現する前から、そのことを願った時に確認し、たとえまだ目には見えなくともそれを事実として確認することだというのです。更に、3節では「信仰によってわたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と、この目に見える世界は見えないものからできたことを謳っています。そしてアベル、エノク、ノア、アブラハムそしてサラの歩みが記され、彼らの歩みが信仰を持ったものであったことが賞賛されています。続いて、アブラハムの息子イサク、その子のヤコブ、そしてヨセフ、イスラエルの民を出エジプトに導いたモーセ、更には約束の地カナンでイスラエルの民を助けた娼婦ラハブの名まで書かれています。そして最後の32節には「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。」と、この民族の歴史を形成していった人々の名前が続いて記されているのですが、彼らが信仰によって神に認められたことが述べられています。彼らは目に見えるものだけでなく、目には見えないものに目を注ぎ、それを確信して歩んでいったのです。

 このヘブライ書が書かれた時代を完全に特定することは困難なようですが、ローマ帝国によるキリスト教会への迫害が激しくなっていった頃の作品、だいたい紀元後1世紀の後半頃に記されたのだろうと言われています。イエス・キリストを救い主と信じ告白し続けることがとても困難で、命懸けの闘いであった時です。そんな中で、キリストを信じる信仰者たちを慰め、励ますために記されたのがこのヘブライ書です。手紙と名がついていますが、説教というのが正しい理解でしょう。すなわち、どんなに激しい迫害が
起ころうとも、彼らに天の御国への希望と約束に堅く立たせようとした言葉、それがこのヘブライ書であります。

 この地上での生涯はよく旅になぞらえられます。どんな旅にも終わりがあるように、人生という旅にも終わりがきます。英語では終わりのことをendと言いますが、この言葉には目的、目標という意味があります。人生という旅にも目的と目標の場所があるはずです。皆さんは何を目指してこの生涯を歩まれているでしょうか。幸せを求めて、今の生活の安定、より善き生活を目指しておられるのでしょうか。それらは全て正しい歩みだと思います。ただ全ての人に共通している目指すべきこと、人生と云う旅の終着の場所、それは死でしょう。全ての人に等しく死はやって来る。だkら誰もが死と云うゴールを目指して歩んでいると言えるのです。

 聖書もそのように人生という旅の目的が死であることを告げています。今日のこの11章においても、先ほど触れた聖書に登場する多くの信仰の先達たちも、信仰を抱いて地上での生涯を全うしました。アブラハムはある時、神さまから「生まれ故郷を離れ、私が示す場所に行きなさい」とのみ告げを受けます。8節です「信仰によって、アブラハムは自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召しだされ」たのです。そして彼は「これに服従して、行き先を知らずに出発した」のです。彼の人生は旅から旅への連続でした。他国に宿り、幕屋に住み、それこそ流浪のような生活でした。そんな彼を支えたのは、10節の信仰です。「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」その聖書の告げる堅固な都こそが、天の故郷です。

 この11章では、私たちが信ずべき信仰の本質と私たちが抱き続けるべき希望の確かさが記されています。13節からを見てまいりましょう。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は彼らのために都を準備されていたからです。」

 この彼らが私たちに示してくれた信仰の真髄、それこそは、天の御国こそがわたしたち信仰者の永遠の住処であるということです。天の御国こそが、私たちが帰るべき故郷であり、この地上での歩みは、それがどんなに華やかでまた栄光に満ちたものと思えようとも、またそれがどんなに惨めでつらく苦しいものであろうとも、それは仮の住まいであり、地上での歩みは旅人、寄留者としての日々に過ぎないということです。

 天に召された兄弟姉妹たちは、お一人おひとりそれぞれが尊いお働きと歩みをなさってきました。そのことに私たちは敬意を覚えます。しかしそのことと同様に、彼らが目指し迎えられていった天の御国の確かさと、そこに私たちをも迎え入れようとして下さる主イエス・キリストの愛と恵みに身を委ねたく思います。

 この地上での栄光と平安だけでなく、天の故郷を熱望する生き方。それこそが私たち信仰者の歩みの確かな姿です。目に見えるものだけでなく、目には見えないものに目を注いでいく生き方、それが天の御国を熱望する生き方です。その故郷こそは私たちの帰るべき場所であり、神が私たちのために準備し、私たちが来ることを待っていて下さる場所なのですから。私たちはこの朝、あらためて主にあって召されていった兄弟姉妹たちのその信仰から天の故郷の希望とその約束の確かさを私たち自身の確信とさせていただきたく願います。そして後に残された私たちも天の故郷に帰ることを熱望して、この地上での歩みを信仰を持って走り抜きたいと願うものであります。お祈りをさせていただきます。いつものように黙想の時を少しもちましょう。


 

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