「弁護者」 


 ヨハネによる福音書14章25〜31節  
 2007年10月7日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 2週間の休暇をいただいて、福岡に行き、高知に戻ってまいりました。もう既に聞いておられる方もおられると思いますが、休暇も終盤に入った先々週の水曜日9月26日の午前9時10分に妻の祖母の訃報の連絡を受けました。誕生日を2日後に控えた満93歳での大往生でした。皆さまにも長くご心配いただき、またお祈りいただきましたことを心から感謝申し上げます。両親からも教会の皆さまにくれぐれもよろしく言っておくように言われております。

 さて本日与えられました聖書の箇所はヨハネによる福音書14章25節からです。ここは15節から始まっております「聖霊を与える約束」という段落の後半部分になります。ここに至るまでの文脈を振り返ってみましょう。この14章は1節から主イエスの「決別説教」と呼ばれる主イエスの弟子たちに対する最後のメッセージが語られています。このとき既にイスカリオテのユダは主を裏切るためにイエスさまの所からは出て行っていました。ペテロの離反も予告されています。主イエスは明日になれば十字架につく、そんな思いで語られているのですが、弟子たちにはそのことが十分に理解されていません。「イエスさまは『自分は父の許へ行く』とか『互いに愛し合え』とおっしゃるが、一体何が起きるのであろうか」と弟子たちは考えたことだと思います。尋常でないものが伝わってきます。心は騒ぐのです。そんな彼らに向かって1節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と主イエスは語り始められました。

 ヨハネによる福音書においては、「イエスを信じること」とは、「イエスを愛すること」です。信じることと愛することとは表裏一体の関係にあります。イエスを愛していると言えば、その裏で支えているのは、主イエスを信じる信仰です。それも漠然と信じるのではない、それは主イエスの言葉を聞いて信じるのです。この信仰に留まり続けていることが、主イエスを愛していることだということです。信じることと愛することは一つです。そしてその源は、主イエスの言葉を聞くことにあります。24節をご覧下さい。
「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」
 主イエスの言葉を聞き、信じる者は主イエスを愛する者となる。そしてそれは主の言葉を守る、神の言葉を守る者となるのです。
 今日の箇所はそのような文脈の中で語られていきます。
25,6節
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」

 弟子たちにとって主イエスは、この時までいつも目の前にいる存在でした。その主イエスがまもなく弟子たちの許を去って、十字架につく道を歩み出される。弟子たちをこの世に残していくにあたって「心騒がせるな」とおっしゃるのです。聖霊を遣わしてあなた方に力を注ぐと言って下さるのです。一般的には、お師匠さまは自分が去った後は、自分の言葉を遺訓のように、その言葉を信じて生きていくようにと残された弟子たちに伝えるものでしょう。生前に与えられた言葉を集めて、それを糧にするような生き方です。しかし主イエスはそのようには教えられませんでした。聖霊が降るとき、主イエスの言葉は単なる過去の言葉としての遺訓なのではなく、今この瞬間に生きて働く言葉となると言うのです。一人ひとりに聖霊が与えられた時、そこに主イエスがおられることとなるのです。それはキリストご自身のみ業の継続にほかなりません。この聖霊の働きとは「イエス・キリストが語られた全てのことを思い起こさせ、その内容を理解させること」にあります。イエス・キリストを信じることは、イエスの言葉を信じることです。ですから聖霊が働く時には、イエスの言葉が思い起こされ、その言葉が弟子たちを生かすこととなる。

 わたしたちの信仰とは、主イエスの言葉を聞いて信じることです。それは単に「良い教えを学ぶ」というものとは異なります。み言葉を信じるとき、そこに主イエスが生きているのです。それゆえ、信じることは愛することへとつながっていくのです。み言葉を聞き、信じるところに主がともに居て生きて下さいます。

 今日の決別説教の聞き手は弟子たちです。ユダが去って彼らは11人になっています。彼らは不安でした。恐れを感じていました。それはわたしたちも同様ではないでしょうか。主イエスを信じつつ、不安を抱え、さまざまな悩みや困難が目の前にはある。祈る前に、ため息をついてしまうことさえあります。神さまの前に祈るのですが、上手く言葉が出てこない。祈ることが辛くなり、祈ることすら出来なくなることがある。しかし、そんな時、祈りの言葉は出てこなくとも、主イエスのことが思い起こされるのです。また、主イエスと出会ってその人生が変えられた人たちのことが思い出されます。私はこれも聖霊の働きではないかと思います。それらのことを通して、主イエスによって生かされていることが思い起こされる。
そしてそれこそが27節以降で主がおっしゃる主が与える平和にほかならないのです。

 イエスさまはここで、別の助け主を送っていつまでもあなたがたと一緒におらせて下さると約束されています。16節です。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」

 14章だけでなく、15章、16章にもこの弁護者について、主イエスは約束されています。弁護者というのは、自分の側に立って、味方になってくれる人です。これは元の言葉では「パラクレートス」という言葉で「傍らに立って、励ましたり、慰めたり、力づけてくれる者」という意味です。ですから、新共同訳以外の聖書では、「助け主」「慰め主」と約されていました。

 弁護者といわれると、弁護士を連想してしまうのですが、この聖霊としての弁護者は、世の弁護士とは異なります。世の弁護士も人間ですから限界があります。しかし主イエスが遣わして下さるこの弁護者は裏切ることがありません。たとえ目には見えなくとも、わたしたちにイエスの言葉を、またイエスの生き方を私たちに思い起こさせることを通して、わたしたちを助けて下さるのです。

 先月の召天者記念礼拝の時にも申しましたが、この世の中は目に見えるものによってだけ成り立っているのではありません。聖霊は、この弁護者はわたしたちの目には見えない存在には違いありませんが、聖霊は天の御国にあるのではなく、イエスさまが約束して下さっているように私たち信ずる者に与えられています。そしてこの弁護者はわたしたちを一人にせず、また恐れの不安のただ中にあるときに、共にいて助け、励まし、慰めて下さるのです。そしてそれこそが、世が与えるのとは異なる、真の平和、平安が与えられるのです。

 その弁護者の助けと与えられる平和の福音を信じて、今日の31節のみ言葉にあるように「立って、ここから出かけて」この世の、それぞれの遣わされる場に出て行って歩みたく思います。お祈りします。




 

2007年説教ページに戻るトップページに戻る