「賜物と才能」 


 Tコリント12章1〜11節  
 2007年10月14日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。今日もこうしてご一緒に礼拝が出来ますことを心から感謝申し上げます。9月から始まりました高知生協のみんなが集まれる場もひと月が経過しました。当初は最初の何ヶ月かは誰も来ないのではないかと、スタッフの方とも話しておりましたが、その予想を超えて、何人かの方が集って下さっています。第一回目からほぼ毎回来ておられる親子の方や、前々回には高齢者の方も集って下さいました。少しずつですが、この取り組みも広がっております。現代社会の一つの特徴は、地域共同体の崩壊です。そんな中で、地域の寄り合いの場というか、子どもからお年寄りまで、誰もが集まれる場所が求められているのです。高齢の方、小さいお子さんを持つ方、障がいをお持ちの方が交流を持てる場と今後なっていければと願っています。教会の皆さんのお支えとお祈りをお願い申し上げます。

 さて本日与えられました聖書の箇所は、コリント信徒への手紙一12章のみ言葉です。この12章は11章の主の晩餐、聖餐について述べたことに続いて、教会の秩序とあり方について述べる中で、一人ひとりに与えられた賜物の意味とそれをどのように用いていくかについて語ってくれています。

 さてこの賜物ですが、これはギリシャ語では“カリスマ”と言います。“カリスマ”とは本来は、ここを含め、使徒パウロが用いた言葉で、全てのキリスト者に与えられる「神の恵み」である“カリス”、霊的な賜物を意味する言葉でした。それがいつの頃からか、一般社会において芸能人やある特定の職業において特別な人気や知名度を誇り、ファンから神同然に崇められる人物に対して、手軽に用いられるようになりました。「カリスマ美容師」「カリスマモデル」「カリスマ主婦」といった具合にです。しかしこれらは、本来パウロが用いた用法とは異なり、特別な才能を持った人に対して用いられているもので、本来のパウロの用いた語法とは異なるように思えます。

 パウロはここで、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。」と、賜物は霊によって与えられるものであることを述べます。そして7節で「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と、賜物は単に天賦の才能として個人に与えられるものではなく、そこには一つの秩序と目的があることを伝えてくれます。すなわち、賜物とは神の霊によって与えられるもので、その与えられた者にとってだけ益になるものではなく、全体にとって益となる、神さまの栄光を表すように与えられるものです。それが賜物と才能との違いだと言えます。

 8節からでは、パウロはその御霊の働きによる賜物を具体的に述べていきます。
「ある人には霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」

 これらについて一つひとつを本日は述べることはしませんが、この中で最初に「知恵の言葉」「知識の言葉」が置かれていることに注目してみたいと思います。賜物、カリスマと聞くと、霊的なものが強調され、奇跡を行なうことや癒しの力や異言を語ることを連想してしまいますが、ここではパウロはそれらよりも「信仰」を前に置き、さらにそれより先の第一に「言葉」を持ってきています。

 コリントの教会は「霊の賜物」に恵まれた教会であったようです。しかしどうも、それらのことが教会内の争いや揉め事の種となっていました。賜物に優劣をつけ、そこに競争意識が働いたり、霊的な事柄をその現象面だけで評価したり、特に異言の賜物が激しく求められました。パウロ自身は異言を語る者であったようであり、賜物としての異言の価値を認めることにはやぶさかではなかったのですが、それが自己の存在のアピールや自己目的のために追求されることが全体の益とならないことを重々承知していたのです。

 だからパウロは、この霊的な賜物について述べるにあたって、最初に1節から3節のところで、「次のことはぜひ知っておいてほしい」と述べて、真の霊、聖霊の働きの根本についてふれているのです。霊には様々あるが、真の霊かそうで無い霊かを判別する基準は、聖霊は「言葉」に結びついているということです。聖霊は必ず言葉をもたらし、言葉において聖霊は働きます。たとえそれが、直接的には意味の不可解な異言であったとしても、それもやはり言葉であります。ただしそれは解釈される必要があるのですが。

 パウロはコリント教会の人たちが福音に触れる前の異教徒だった時代に、偶像礼拝に陥っていた頃のことを例に出して説明します。しかしそのようなものの言えない偶像は、人間に生きるための言葉を与えることは出来ません。聖書の神さまは言葉によって創造し、言葉によって人を導き救い出すお方です。

 そしてパウロは、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と述べ、霊のもたらす言葉こそが大事であることを説きます。聖霊のもたらす言葉とは「イエスは主である」であり、聖霊の働きの中心は、イエス・キリストヘの信仰告白であるということです。そしてこの告白の言葉こそが霊の与える賜物であるのです。

 イエスは主であるとの告白に導かれた者が複数集う場、それこそは教会にほかなりません。ここで述べる全体の益となるための“全体” とは、そのように霊によって「イエスは主である」との言葉に導かれた者たちの群れである教会のことです。ですから、賜物は、個人の自己目的のために与えられるものなのではなく、教会にとっての益となる、言葉を換えて言えば、教会を建て上げるために霊によって与えられるものです。そしてその賜物を本来の目的に添って導く、用いるのは神であります。

 パウロは、カリスマを持つ者が特定の人々、異言を語ったり、特定の奇跡を行なう人々だけであることをはっきりと否定しています。特別に恵まれている人々なんかいない、11節にあるように「霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さる」のだと述べます。だからこそ、全体の益とならないのであれば、それがどんなに素晴らしい才能によるわざであっても、無益となるのです。

 聖書教育の聖書の学びにおいては次のように記されております。
「『賜物(カリスマ)』とは、教会に集う一人ひとりが聖霊によって満たされることを言います。この賜物によって、その人はそれが与えられなければ出来なかった課題を果たすことができるようになります。しかし、私たち一人ひとりに与えられている賜物は他の人々のために、『全体の益』のために方向づけられています。この聖霊の賜物によって、一人ひとりの目的は全体の益となり、全体の益は一人ひとりのものとなります。このように、賜物は個人の才能や能力に留まるものではなく、聖霊による賜物であり、互いに仕え合うために与えられています。」

 才能は、その人自身の益となるために用いることもが、その目的ではあります。しかしそれが全体の益とならなければ、それは賜物とはいえません。たとえそれがどんなに他人よりも優れた能力であってもです。しかし一方、賜物は「霊の望むままに一人一人に分け与えられる」ものです。ですから、それが群れの中では目立たず、またどんなに平凡なだと思えるものであっても、それが全体の益となるならば、それを神は教会を建て上げるためにお用い下さいます。それゆえ、賜物は全体を生かし、同時に一人ひとりをも生かすものであるのです。

 教会に与えられている今年度の主題聖句は「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」です。主によって与えられているそれぞれの賜物を用い、互いに仕え合い、教会全体の益となるように願っていきたいと思います。お祈りをいたします。




 

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