「聖霊を冒涜する者とは」


 マルコによる福音書3章20〜30節  
 2007年10月21日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。10月も早いもので3週目となりました。今月は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」ヨハネによる福音書14章16節のみ言葉を中心に、ご一緒に聖霊という主題のもと、み言葉に聞いております。

 今日の箇所の最初には「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇がないほどであった」とあります。とてもたくさんの人たちが主イエスのもとに集まってきたのです。しかしその集まって来た者たちの大半は、主イエスが一人ひとりにとって真の意味でどのような方であるかを分かってはいませんでした。ただ自分の悩みや要求を満たしてもらえる、その多くは病や様々な困難の解決のみを求めていたようであります。主イエスが「食事をする暇もなかった」というところに、彼らの身勝手さが現れているように思えます。主イエスが今日のところでそれらの人たちにどのように接せられたかは分かりませんが、一人ひとりに誠実に付き合われたことだと思います。主イエスの福音宣教の第一声である「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるように、粘り強く神の国の到来と悔い改めて福音を信じるように説いておられたのかもしれません。

 ここには「群衆」に混じって、別なグループに分類できる人々がいました。その第一は21節の「身内の人たち」です。彼らは「癒し」や「悩みの解決」を求めてやって来たのでなく「あの男は気が変になっている」という噂を聞きつけて、「取り押さえる」ためにやって来ました。もう一つのグループは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていました。この第二のグループは、「エルサレムから下って来た律法学者たち」であり、彼らも群衆たちとは異なって、癒しを求めたのではなく、悪口を言い立てて群衆を扇動しようとしていたことだと思われます。身内の者たちも、この律法学者たちに煽り立てられて、主イエスを取り押さえねば、と思ったのかもしれません。

 本来彼らは、他の人々よりも主イエスのことを信じることの出来る人たちではなかったかと思います。身内の者たちは主イエスに最も近い立場の人たちだからです。また律法学者たちは、聖書を研究していたのですから、イエスさまのことを信じられたのではないかとも思うのですが、実際はイエスさまを取り押さえようとし、イエスさまのことを悪霊の頭だと言ったのです。彼らは何故主イエスのことが信じられなかったのでしょうか。それはあまりに自分の知っていること、認識していることを絶対視したからではないかと思われます。「イエスのことなら小さい頃からよく知っている」「聖書のことなら良く分かっている」、そういった自分の知識や経験により頼んでしまったことにより、神さまのなさろうとすることが見えなくなってしまったのでしょう。

 主イエスは彼らを自分の所に呼び寄せて、たとえを用いて語られました。23節です。ここにある「そこで」は、この身内の者や律法学者たちの行動を受けたものです。

 主イエスはたとえをもって語られました。とても明瞭なものだと思います。端的に述べるなら、サタンにも内輪もめがあったら困るだろうということです。サタンや悪霊と言われるものは、人の心を乱すものです。私たちの心を分裂させ、混乱に陥れるものでもあります。しかし、その平和を乱す者であっても、彼らの仲間うちで乱れれば困り、立ち行かなくなり、滅びてしまうのではないかとおっしゃるのです。愉快でユーモアに満ちた反問です。サタンもそんな内輪もめをしないものだ、だからわたしが悪霊の頭であるならば子分であるサタンを追い出したりはしないものだ、とおっしゃるのです。

 主イエスは彼らの答弁の中に、悪意と不信仰を見ます。今日の箇所の並行記事であるマタイ12章には、この話の発端はイエスが「悪霊に取りつかれて目が見えず口が利けない人」を癒したことだと書かれています。彼らも、主イエスの癒しの業を見ているのです。しかし彼らはその事実を信じることが出来ずに、実に冷ややかにしか見ないのであります。主イエスは神さまの愛をもって病人を癒し、霊に取りつかれた人を癒されているのにです。いかにも訳知り顔で批評していたのかもしれません。自分たちの知恵や知識から、これは「悪霊の頭ベルゼブルの力」によるものと決め付け断言しているように思えます。自分たちこそが「神の霊の働き」を見分けることが出来るのだと自認していたからです。ここで、癒されたり、悪霊を追い出してもらった人の苦しみに心を向けず、ただ自分たちの知識や面子にのみしがみ付いている姿が見て取れます。

 そのような者たちに向かって主イエスがおっしゃったのが、28節以降の言葉です。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」
 この主イエスの言葉は、一読すると矛盾することをおっしゃっているように思えます。そしてこの言葉が後の教会において悩みを呼び起こしました。28節で「どんな冒涜の言葉も赦される」と言われたのです。どんなに神を汚すような不信仰なことを言っても、主イエスはそれを赦して下さるという約束です。ところが、29節では、赦されない罪があると改めておっしゃった。それは聖霊を冒涜する罪だと。悩ましい言葉です。何故主イエスはこのような断りをつけられたのか。

 30節には「イエスがこう言われたのは、『彼が汚れた霊に取りつかれている』と人々が言っていたからである」とあります。主イエスが汚れた霊に取りつかれていると思い込み、そう言い張る人々に対して語られたのです。それは、ご自身において働く聖霊を否定することです。聖霊をこともあろうに、汚れた霊だと言い張ったのです。主イエスご自身において働いておられる霊が神の霊であることを認めないのです。それこそが聖霊を冒涜することになるのだと主はおっしゃっているのです。

 この「聖霊を冒涜する」という元のギリシャ語は「聖霊を冒涜し続ける」という意味を含んだ動詞が使われていると、ある人が指摘しました。一回だけのことではない。その人の存在そのものが、主イエスは神の子などではない、主イエスの罪の赦しなどは全く意味を持たない、そう言い続ける、そう信じ続けるものとなってしまっているのです。
聖霊とは、私たちに対しての目に見えない神さまの働きのことだと言えます。それは神が何とかして私たちを救おう、助けようとされる神の愛の働きによります。先週も見ましたように、その聖霊の働きと導きによって、私たちは「イエスは主である」と告白出来るのです。ですから、聖霊とは、私たちに対しての神の愛の働きであり、神の赦しの宣言であります。そのことを認めようとしない態度こそを問題とされているのです。

 神は全ての罪を赦すことを、主イエスの十字架において示して下さいました。主は自分を十字架にかけた人々に対して「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかわからずにいるのです」と祈って下さいました。ですから、十字架によって赦されない罪はないのです。しかし、ただ一つどうしても赦されない罪があるとすれば、それは罪の赦しを受け入れようとしないこと、神の愛の赦しの宣言である聖霊の働きを事もあろうに悪霊の働きだと言い続けることだとおっしゃっているのです。そしてそれは神の赦しを否定することにつながるため、そんな者のことを神はお赦しにならないとおっしゃるのです。
繰り返しになりますが、ここで言われている聖霊を冒涜する罪とは、何かしでかしてしまった一つの罪のことではありません。神の霊の働きを悪霊の仕業と言い続けることであり、主イエスの十字架の赦しすら意味を持たないと言い続ける罪のことです。
使徒パウロが主イエスの十字架による一方的な罪の赦しについて述べた時、それを信じない人々が「そんなうまい話はない、それならば『恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきか』『もっと罪を犯し続けよう』」と言ったことがロマ書6章に記されております。それに対してパウロは「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と言いました。

 この罪の赦しの有り難さ、その恵みの深さを自分のものとして受け留めることです。その恵みの中に自分自身を置き、その赦しの中に生きることが求められています。聖霊を冒涜することの正反対の行為は何でしょうか。
一つには聖霊の働きを信じることですが、言葉を換えて述べるならば、目に見えない神の働きに身を委ねることです。たとえ目には見えなくとも、確実に導いて下さる聖霊の導きに委ねること、任せることです。そして、
身内の者や律法学者たちがそうであったように、そのことを阻もうとするのは、自分自身の知識や経験です。自分の知っていること、自分の考え体験に頼ってしまう罪を犯してしまいます。私たちもそのような罪を犯すことがないように願うばかりです。今週一週間の歩みが聖霊の導きに委ねるものであるようにと願います。






 

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