皆さんお帰りなさい。この朝は、使徒パウロが記したローマの信徒への手紙8章から、特に26と27節のみ言葉に集中して聖書から聞いていきたいと思います。 今月もずっと聖霊について見てきましたが、これは様々な言葉で表現出来ますが、私は「目に見えない神さまの働きだ」と先週も述べました。しかしこれだけでもは、何だか分かったような分からないような気持ちになるものであります。ヨハネ福音書3章8節には「風は思いのままに吹く」という主イエスの教えが記されています。これは、霊は風のように、どこから来て、どこへ行くのかは分からないということであります。というのは、聖書の元の言葉では「霊」を意味する言葉と「風」を意味する言葉とは元々が同じ言葉なのです。風について語るのが困難なように、霊についても人の言葉で語りきれないところに、神の霊の特質があるのです。
今日のロマ書8章26節に「霊自ら」とあります。何気なく読み過ごしてしまう言葉ですが、とても大切な言葉です。霊とは人間が自由に出来るものではありません。うっかりすると、私たちは人間が自由に用いることが出来る霊的な力、神秘的な力があるかのように考え、神さまの霊の力を人間が自由に使えるかのように錯覚してしまいます。しかし、パウロはそうではないと言います。霊が自ら、働き、執り成すのだと言うのです。霊は私たちの自由になるものでも、目に見えるものでもありませんが、風が吹いた時に肌で感ずることが出来るように、私たちは神の霊の働きを感ずることが出来るのです。
この霊は「弱いわたしたちを助けて下さいます」と26節で述べられています。この「助ける」と訳されている言葉は、とても珍しい言葉で、新約聖書ではここ以外に後1箇所しか出てこない言葉です。それは、ルカ10章のあのマルタとマリアの姉妹の話で、姉のマルタがイエスさまのお世話に奔走している時に、妹のマリアがイエスの足元に座ってただイエスの教えに耳を傾けていた。マルタは腹を立てて「何故私の手伝いをするように言って下さらないのか」とイエスに訴えましたが、この時の「手伝い」という言葉がこれです。とても忙しくて「猫の手も借りたい」と日本語では言いますが、そんな時に誰かが助けてくれればどんなに嬉しいことか。そういう時の「お手伝い」を示す言葉なのです。
この「弱いわたしたちを助ける」というのは、単に私たちの弱さを助けるというのではありません。弱さを感じているところに、その弱みを思い知らせるような形で働くのでもありません。「弱さにおいて働く」、私たちの弱さが現れてくるところで、私たちに代わってその弱さを担い取るように助けて下さるのです。
では、私たちの弱さはどのような場面に出てくるのでしょうか。26節の頭は「同様に」という言葉で始まっています。今日は26節からを取り上げましたが、ここは25節から繋げて、「私たちは目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に霊も弱いわたしたちを助けて下さいます」とそのように続けて読むことが出来ます。そう繋げて読むことで見えてくるものがあります。それは、私たちの弱さというのは、忍耐できない弱さだということです。何が忍耐できないのか、それは待ち望んで生きていくことに耐えられないのです。望みが見えてこない、真っ暗闇の中で生きているかのように思う、そんな弱さです。
ある日本の哲学者が、現代の日本人の姿を「夜を嫌う軽金属的な人間」という言葉で表現しています。「夜を嫌う軽金属的な人間」、重い鉄ではない。きらきらして輝いて見え、見た目はよいのですが、すぐに吹っ飛んでしまいそうな軽さがあります。その軽さと夜を嫌うことが結びついている。この哲学者によると、夜とは、本来人間がいろいろと思い巡らして、じっくり思索に耽る時だ、というのです。しかし現代人は、夜になって昼を欺くような明るさの中でテレビを見て過ごしている。
夜に思い巡らすことで、私たちの弱さが見えてくるのだとその哲学者は言うのです。自分自身の弱さと向き合う時、それが夜なのです。だから現代人は、自分の弱さと向き合う夜を避けて、夜も昼間のように明るくして、過ごす。思索に耽ることをせず、ごまかして生きている。「夜を嫌う軽金属的な人間」そう言われたら、一言も無い私たちであります。
この弱さが現れてくるもう一つの場面は、「わたしたちはどう祈るべきか知りませんが」という言葉に、表されています。弱いのですから、苦しさも感じるのですから、そこで神に祈ればよいのですが、わたしたちは時に、いやしばしば、そのように行き詰まった時、祈ったらよい時にこそ、祈れなくなってしまうものであります。人間は本来誰だって、祈ることを知ってるはずです。願を掛けることを知っています。その悲鳴にも似た叫びを神に向ければ祈りになるのです。けれどもそのように悲鳴を上げ祈りを献げることにおいて、わたしたちの姿勢が真っ直ぐに神さまの方に向かえない時があります。
まさにその時に、その嘆きを共有しながら、聖霊が手を添えて立たせて下さる、祈れるようにして下さるのです。何と祈るのか、「アッバ、父よ」です。「アッバ」とは、幼い子どもが父親を親愛の情を込めて呼ぶ時の呼び名で、日本語で言ってみれば「お父ちゃん」でしょうか。この8章15節には「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。どう祈ってよいのか分からない者に、聖霊は祈りの言葉を与えて下さるのです。
そして、パウロは26節で、聖霊の働きを「聖なる者たちのために執り成してくださる」のだと言い表しています。執り成すとはどのようなことなのでしょうか。日本語の意味としては、辞書によると第一の意味として「対立する二者の間に立って、事態が好転するようにうまくとりはからうこと」とあります。しかし詳しく見てみると「手に取って別の物に変える」「実際とは違うように振る舞う」という意味があることを知りました。これは元々は、「執る」は「手に取る」ことで、「成す」は「見做す」(「返事がないので欠席と見做す」とか「雪を花とみなす」というような)「判断してそうと決める」「そうでないものをそうとみる」と言う意味の「見做す」という二つの言葉が合わさって出来た言葉でした。そこから「あるものを手に取って他の物に変えてしまう」という元の意味があったそうです。しかし変えようのないものもあります。そこで「手に取った物が、その物自体は変わらないけれども、あたかも他の物であるかのように見做して扱う」という意味になっていったそうです。たとえば、刀を手に取って、これを槍のごとくとりなすという言い方をするのです。
なるほどと思いました。人間関係が気まずいものとなってしまった。困った。その関係を何とか修復しなければならないけれども、自分の手ではどうしようもない。その時に求めるのが、誰か執り成し手が現れることです。その執り成し手が、相手のところへ行って、話をつける。「あいつはあなたがおっしゃる通り実にけしからん奴だ。しかしあの男はあれで結構見どころがある、そんな悪気があってやったことではないから、今日のところは私の顔を立てて勘弁してやってもらえまいか」とか何とか言って執り成すのであります。時には実際の姿よりも、よりよいものと見做して、相手に提示することで、両者の関係を修復する。これが「執り成し」です。
では、御霊は、どのようにわたしたちのことを執り成してくれるのでしょうか。8章14節には「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」とあることからも、私たちは神の子と見做してもらえるのです。しかしそのように言われても、わたしたちは正直言って、果たして本当に自分は神の子となれたのだろうか、と心細い思いになることがあります。神の子ならばなすべきはずの忍耐をどれだけ持ち続けているだろうか、自分なりのマイナスの自覚があるのです。神の子としての愛に生きているかどうか、自信がもてないのです。その時に、聖霊が、私たちの内側にあって「アッバ、父よ」という呼び声を与えて下さる。聖霊が私たちの内側に入って「神よ、この人もあなたの子ですよね」とそう言ってくださる。「アッバ、父よ」と呼ぶ声を口にするように、神との関係を修復するための手助けをして下さる。これが聖霊の執り成しです。
イザヤ書61章の3節(旧約の1162頁)に「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」とあります。「賛美の衣をまとわせる」同じく10節では「主は救いの衣をわたしに着せ」とも書かれていています。今学んでいる言葉で言えば「神の子の衣」と言ってもよいでしょう。「聖霊の執り成し」によって、私たちはそのような着替えをするのです。聖霊の助けをいただいて、「賛美の衣」「救いの衣」に着替えをするのです。愛もなく、忍耐力も信仰も不十分なものが「アッバ、父よ」と呼びかけることで、「神の子の衣」を身に着けて立ち上がることが出来るのです。
そのように考えていきますと、27節についても分かっていただけると思います。「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」私たちが思うような「執り成し」ではありません。神の御心に従った「執り成し」です。神さまにふさわしいものとして、私たちを神の子として立たせてくださるのです。
この27節の「霊の思い」とは8章6節にあるように「命と平和」です。私たちは時には、自殺まで考えるような絶望に駆られることがある。もう自分は駄目だ、とへたり込んでしまうこともある。しかし聖霊は座りこまないのです。「霊の思い」は真っ直ぐに神の方に向かっていきます。そしてその「霊の思い」の中で、私たちを神の方向へと命と平安を持って立たせて下さるのです。その聖霊の執り成しを信じて歩んでまいりましょう。
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