「イエス本願」


 ヨハネ15章1〜10節  
 2007年11月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。今日の聖書の箇所はぶどうの木の話ですが、ぶどうは教会では一つの象徴としてよく用いられます。その実からワインが出来ることからも、古代オリエント社会においては、健康と富の象徴であったようです。聖書においても、旧約のあちらこちらにぶどうは出てまいります。今日は全てを見ていく時間はありませんが、出エジプト記、民数記、詩編、雅歌、イザヤ書、ホセア書等に出ています。一つは「選ばれた民」としての象徴です。イザヤ書5章7節「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたユダの人々」(1067頁)。またぶどう畑は、天と地を結びつける「神の愛のしるし」としても描かれています。雅歌7章13節(1057頁)「朝になったらぶどう畑に急ぎ 見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか ざくろのつぼみも開いたか。それから、あなたにわたしの愛をささげます。」新約聖書においても、ぶどう園のたとえの話が出てまいりますが、本日の箇所では、イエスさまご自身がご自分のことを「まことのぶどうの木」だとお話しになっています。ぶどうの木はパレスティナの地方では珍しい植物ではありません。かなり一般的に目にする木であり、そんなに大きな木ではありません。

 このヨハネ福音書15章の7節の最後のところには、とても嬉しい言葉が記されております。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」私たちは多くのことを願います。自分の願望を満たすような願いもあれば、世界平和やこの世から貧困がなくなるように、といった公共の願いまでさまざまあるかと思います。それらのことに希望の光があてられる、いわば主イエスが太鼓判を押して下さるこの言葉は、明日をも信じられないかのような時代に生きる私たちに、大いなる慰めと平安を与えてくれます。しかし、ここには一つの条件がつけられています。7節前半です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」というものです。主イエスにいつもつながっていなければならない、更にその前の6節には「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」ともあります。イエスさまの方にまっすぐ心を向けておれる時もありますが、そうでないことも多くありますから、こういった言葉を読むと不安になってしまいます。しかし心配ご無用です。安心下さい。4節には次のように書かれていますから。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」そうなのです。主イエスの方で、私たちの手を握っていて下さるのです。更に4節の続きには「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。遠藤周作さんは何度も信仰を捨てようと思ったことがあられたそうですが、「その度にイエスという男が私の後をついてきた」というような旨のことを書いておられます。意図的でなくとも、私たちの方で手を離してしまうことがあります。しかし、主イエスの方が手を離すことなくつながっていて下さるのです。

 ヨハネ福音書のキーワードの一つに、この「つながっている」があると言われています。これはギリシャ語の“メノー”という言葉なのですが、「つながる」「とどまる」とか「〜の中にいる」「宿る」「住む」というような意味まである言葉です。ヨハネ福音書では40回以上出てまいります。ですからこの言葉は、主イエスと私たちとの関係を言い表す非常に大切な言葉です。私たちが誰かと行動を共にする時には、その双方に何らかの信頼関係が必要です。信頼のないところで、行動を共にすることはとても危険です。主イエスが殊更ここで「わたしにつながっていなさい」とおっしゃるのは、「わたしを信じなさい、信頼しなさい」という呼びかけでもあります。
このぶどうの木の話はイエスさまが最後の晩餐の夜に語られたものの一部です。ですから、これはイエスさまの遺言だと言えます。この後、主イエスは捕らえられて十字架につけられていきますが、弟子たちはあっけないほどに簡単に主イエスのもとから離れていきます。イエスさまの後に従っていけなかったのです。しかしイエスさまはそうなることが初めから全部判られていました。それでも、弟子たちのことを最後まで愛しぬかれました。そして繰り返しおっしゃったのです。「わたしにつながっていなさい」と。決してイエスさまは手を離されないのです。弟子たちは仕事を捨てて、家族を故郷において従ってまいりました。彼らも大きな信頼を寄せて、人生をかけて主イエスに従ってきたはずです。しかし彼らは主イエスの十字架の道に従いぬくことは出来ませんでした。そして弟子の方がどれほどの覚悟をしておろうとも、最後まつながり続けることは、彼らの力ではできなかったのです。

 弟子の一人であるペテロは、「主よ、ご一緒になら牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いました。しかし、イエスさまの逮捕の場面において、人から「この人もイエスと一緒にいた」と言われただけで、呪いの言葉さえ口にしながら、「こんな男は知らない」と主イエスの弟子であったことを否定して逃げていきました。そんなペテロの弱さを全部御存知で包み込むようにしておっしゃっているのが、この「わたしにつながっていなさい」なのです。これは私たちにも当て嵌まることであります。私たちは「自力」で、イエスさまにつながり続けることは出来ないのです。だた、主イエスの愛と赦しのもとにつながることが出来るだけであります。
今日のこの箇所は、ヨハネの福音書が記された時代、大きな迫害と苦難が迫る中で、不安にさらされながらもなお教会にとどまろうとする人々に、大きな慰めと励ましを与えました。たとえ、命を脅かす苦難にさらされたとしても、イエス・キリストから離れずにとどまることが、永遠の命と祝福に与ることになる、と主イエスは宣言されるのです。先月も見ましたように、父なる神さまはイエスさまが十字架で死なれた後も、聖霊様を遣わして私たちがイエスさまにつながることが出来るようにして下さっています。

 では、私たちはどうしたら主イエスにつながり続けられるでしょうか。主イエスが手を離さずにつながっていて下さるのですから、私たちは何もしなくてもよいのでしょうか。イエスさまは「わたしにつながるだけでよいとは言って下さっているけれど、果たして本当にそれでよいのだろうか、不安だ」そんな思いがよぎることはないでしょうか。いいえ、そうではないのです。確かに、その神さまからの恵みを確認し、応答するために、祈ること、み言葉にふれること、またこのように礼拝を献げることは大切なことです。しかしこれさえも、一つ間違えば、イエスさまから離れてしまうわざになりかねないのです。それは、私たちが祈るからイエスさまにつながっているのではないからです。私たちが聖書の学びをするから、救われたのではないからです。私たちが礼拝を守るから祝福を与えられるのではないからです。これらは全部、私たちがイエスさまにつながり、救い出され、祝福と恵みを与えられたことをの応答のわざであり、イエスさまにつながっていることの結果、結んだ実の一つの表れだからです。ぶどうの枝にはつながっているけど、同時にトマトの枝につながっていることがあるでしょうか。ぶどうの木につながっているけれど、同時にイチジク桑の木につながっている、そんなことはありえないのです。私たちはただ、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実をむすぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」とのイエスさまの呼びかけに信頼して、これしかないと信頼してつながってさえすればよいのです。

 今日の宣教タイトルは「イエス本願」としましたが、これは「他力本願」から採った、私の造語です。この他力本願とは仏教の、浄土真宗の言葉ですが、この言葉は一般的にはたいてい間違って用いられている言葉です。自分は努力も何もしないで「人任せ」とか「他人に依存する」「成り行き任せ」であるというような意味で使われていますが、どれも正しい使い方ではありません。以前オリンパスコーポレーションという会社が全国紙に「他力本願から抜け出そう」という広告を掲載したことがありましたが、浄土真宗各派が厳重に抗議し、その広告が撤回され、オリンパスが謝罪したことがありました。「他力本願」とは阿弥陀如来の本願の働きを指す言葉であります。本願とは阿弥陀如来が立てた本当の願いのことで、その願いの力によって人間は浄土へ往生することが出来ることから、阿弥陀仏の力により頼んで生きていくことが、この言葉の本来の意味であります。今日の箇所もこれにつながるところがあります。イエスさまは私たちの幸福を願っていて下さる。そのイエスさまの思い、願いにより頼んで生きることで、私たちは極楽浄土ならぬ、神の御国に連なることが出来るのです。それは私たちの力やわざによるのではありません。ただイエス・キリストの力、イエス本願によるのです。お祈りをいたします。



 

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