「偏愛の神」


 申命記7章6〜8節  
 2007年11月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。旧約聖書の最初の五つの書簡、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つはモーセ五書と呼ばれています。その最後の書簡が今日の申命記です。イスラエルの民は40年シナイの荒れ野をさまよった後に、神さまの約束の地であるカナンに入りました。その約束の地に入る直前に、モーセが語った説教を記したのが、この申命記です。モーセは、約束の地に入ることなくその120年の生涯を閉じますが、民への彼の「告別説教」が残されており、それをまとめたのが申命記です。イスラエルが救済された歴史を回顧し、律法を解説し、約束の地での律法に適った生活をするように説いております。

 「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つひとつの言葉で生きる」(8章3節)といった有名な主イエスのお言葉は、いずれも申命記からの引用です。
本日の申命記7章6節以下には、神さまの宝の民とされたイスラエルの選びの信仰が語られています。この選びの信仰は、旧約聖書だけでなく、聖書全巻を通して一貫している大切な信仰でもあります。そして、現代を生きる私たち一人ひとりも不思議な神さまの選びによって教会へ導かれ、救いの恵みを与えられ、神さまの宝の民とされているのです。

 神さまの宝の民とされていることとは、私たちにとってどんなことなのでしょう。一般的に宝とは、金銀宝石などのように価値あるものや美しいものとされています。イスラエルの民は、このような基準にあてはまりませんでした。彼らは、他のどの民よりも貧弱で小さな民でした。しかも、数百年にわたってエジプトの奴隷でもありました。とても宝の民と呼ばれるようなものではなかったのです。

 ところが、神さまは小さなイスラエルの民を選び、宝の民とされました。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない」(7節)と記されています。「心引かれて」というのは、美しい人を恋い慕う気持ちを表す言葉です。つまり、神さまはイスラエルの民の美しさに恋焦がれたという意味になります。しかし実際には、神さまの心をときめかせるような美しさや偉大さをイスラエルの民は持ち合わせていたのではありません。それでは、なぜ神さまは心引かれたのでしょうか。その理由が8節に記されています。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」ここには、二つの理由が挙げられています。主の愛と、先祖たちへの誓いです。主の愛とは、イスラエルの民への無条件の愛、無償の愛です。そして、先祖アブラハムに約束されたカナンの地を嗣業として与えるとの約束です。神さまは、一度約束されたことを決して反故にされません。たとえ、イスラエルの民が神さまの愛に背き、約束に不従順であっても、神さまは約束を守り、愛を貫徹されるのです。

 この神さまの愛を成就し、完成されたのが主イエスです。主イエスの十字架の贖いの恵みによって、私たちは神さまの子とされました。そこには、もはやユダヤ人もギリシャ人も、男も女もありません。私たちは神の宝の民とされているのです。
パウロは神の選びに関してコリント信徒への手紙一で次のように語っています。1章26〜28節新約の300頁です。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵ある者が多かったわけではなく、能力ある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」

 ここで、パウロが「兄弟たちよ」と呼びかけているのは、コリントの教会のメンバーたちです。「世の無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」と言っています。その集いが教会であったというのです。主イエスの周りに集まった群衆たち、そしてイエスの弟子となった者たちも、社会的地位の高い者や知識人、金持ちたちではありませんでした。律法の掟を守ることの出来なかった罪人、取税人、遊女、外国の異邦人、そういった当時の社会から阻害されていた者たちでした。主イエスはそれらの人たちを選ばれたのです。ヤコブ書2章5節(422ページ)には「よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」とある通りです。
聖書における神さまの祝福と選びの基準は、有能、知恵、裕福、高貴、多数ではなく、無力、無学、貧弱、卑賤、少数に徹しています。聖書に記された神さまは、世の中の基準とは正反対の者を選び、祝福し、ご自身の宝にするというのです。私たちの人間性や神への従順さや信仰をご覧になり、その評価によって選ばれるのでなく「弱く、愚かで、無力で、貧弱だから選んだ」というのですから、世の常識からすると理解に苦しむほどです。偏った愛、えこひいきではないかと思うほどです。関田寛雄という日本キリスト教団の牧師だった方は、この神さまの非常に偏った姿を、「偏愛の神」とおっしゃっています。今日の宣教タイトルはそれから採らせていただきました。

 「ご自分の宝の民とされた」とあります。宝物ってどんなものでしょうか。この世の価値観からすれば「宝石」や「不動産」、あるいは人も羨むほどの「才能」も宝とされるでしょう。しかし本当の宝物とはそのような万人が認める価値あるもののことではないようにも思うのです。他人からみれば取るに足らないどうでも良いようなものであっても、当の本人にとっては、「何物にも変え難い宝物」であることがあります。そしてその選びは、神さまの愛に基づいています。愛して、愛して、愛してやまない、どうしても見過ごすことが出来ない、そのような愛が一貫してイスラエルの民に注がれ、そして現代を生きる私たちにも注がれているのです。

 イエスさまは十字架につかれるに際して、あの最後の晩餐のときに「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃいました。イエスさまこそが完全に神のものとなって、神に仕える宝になられました。イエスさまこそが十字架の上で全ての人を神にとりなして下さったお方であり、神の御用のために特別に取り分けられた方でした。このイエスさまを信じて結ばれる者を、イエスさまと共に神の宝、聖なる民とするというのが、新しい契約です。主イエスを通して、この新しい契約の中で生かされている私たちは、新しいイスラエルです。私たちは旧約の民イスラエルより、上等な人間になったわけではありません。イエスさまに結ばれている、先週見ましたヨハネの福音書の15章の言葉を用いるならば、ぶどうの木であるイエスさまとつながっている、ただこのことによってのみ、私たちは神の宝とされ、聖なる民とされています。弱かろうが、愚かだろうが、無力であろうが、そんなことは問題ではないのです。主の体なる教会の中では、誰もが神さまにとってかけがえのない存在であり、最も大切な宝とされています。

 私たちは何かが出来るから選ばれたのではありません。しかしその私たちがその神さまの愛にどう応えていくのか、どう主イエスに従っていくのかについて最後にふれて終わりたいと思います。

 第一ペテロ2章9節をお開き下さい。新約の430頁です。お読みします。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」

 私たちは主イエスの新しい契約の中で、神の宝、祭司、聖なる民とされました。しかしそれは、私たち自身を喜ばすためだけのものではありません。イエスさまはご自分の尊さ、聖さを独り占めなさいませんでした。全てを私たちのために献げ尽くして下さいました。ですから、私たちも自分に与えられた尊さ、聖さを独り占めするのでなく、他者に献げることが求められています。多くの人とこれを分かち合うことです。そのために、家庭や職場や地域社会で、またそれぞれが遣わされた場所で、出会った人々に、共に生きる人々に、自分が神さまからしていただいたこと、与えられたイエスさまの恵みを宣べ伝えることです。私たちがどんなに弱く貧しく、愚かであろうとも、神さまが私たちを愛して下さり、私たちを神の宝として下さる恵み、イエスさまの十字架の血によってかけがえのない聖なる民とされた喜びを宣べ伝えるのです。

 旧約のイスラエルの民の先頭にはモーセがいました。しかし、新しいイスラエルである教会の先頭には、いつも主イエスが立っていて下さいます。私たちを見守り、共に歩んで下さいます。繰り返しになりますが、それは私たちが立派だから、また信仰深いからではありません。愚かで、貧弱で何も出来ない私たちのことを見捨てることなく、愛して下さる。それは理解に苦しむほどのことであり、えこひいき、偏愛される神であるかのようです。

 礼拝の度ごとに、主イエスは私たちに語りかけて下さり、私たちが語るべき言葉を託して下さっています。忍耐強くこの世界を執り成し、その神の言葉を、神の恵みを人々に広く伝える宝の民として今週も歩んでまいりましょう。





 

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