皆さんお帰りなさい。「教会憲章」仰々しい言い回しに聞こえるかもしれません。しかし古来より、今日の18章15〜20節はそのように呼ばれてきました。憲章とは、重要で根本的なことを定めた取り決めのことで、基本方針や施策(しさく)などをうたった宣言書や協約のことです。教会にとっての重要な取り決めについて主イエスが語られているところです。というのも、聖書において主イエスが教会について直接語っておられるのは非常に珍しいことから、教会について考えるとても大切な箇所と考えられてきました。ここでイエスさまがおっしゃっているのは、教会財政のあり方でも伝道の方法でもありません。教会がどうやって仲良くやっていったらよいかということでもありませんでした。教会内の兄弟が犯した罪を教会としてどう処置するか、そのことだけをお語りになっているのです。
ここでは罪の中身については何も語られてはいませんから、どんな罪なのかは分かりません。今も政治家にまつわる金の不正の問題や食品会社の偽装問題などが問題になっています。自分の周囲の者の中にそのように罪を犯している者がいる時、どう対処するか、そのことに手を出すのはとても勇気のいることです。見て見ないふりをする方が楽ですし、時が解決するからと決めて成り行きに任せようと思ってしまうものであります。しかし主イエスは、そのようには説かれてはいません。そうではなく、兄弟の所に直接出向いて忠告しなさいと命じておられるのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」これはもっとはっきり訳すならば「すぐに行って、彼を糾さなければならない」となります。「罪を糾す」先ず罪を明らかにする。そして、何が正しいのかを教えるのです。どのようにしたら、正しく生きることが出来るのかを提示する。主イエスは他のことは何も語られてはいません。そしてこれが教会の第一の使命だと言われるのです。
15節の初めの所は口語訳聖書では「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら」とされていました。実はこの部分は写本において違いがあります。新共同訳は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、口語訳は「兄弟が罪を犯すなら」。新共同訳のように「あなたに対して」というくだりを入れることに異論があるのは事実です。罪を犯した兄弟に対して忠告を出来るのは、被害者になった者だけということになってしまうからです。そうすると、これは非常に個人的な問題ということになり、教会全体の問題にならない。主イエスが問題にされているのは、教会の中で誰かが罪を犯した時に、それによって誰がどれほど被害を受けたというようなことではない、被害を受けた分をどのように償わせるかということが問題になっているのでもありません。主イエスはそのようなことには関心を注いでおられません。もしそうでなかったら、「目には目を、歯には歯を」という復讐の論理につながってしまいます。ここではそのような復讐による正義の主張が問題になっているのではないからです。あるいはまた、誰かが罪を犯した時に、そのことを声高に「この人は罪を犯しました」と叫んでいないと、教会の正義が保てないのでもありません。そうではなく、主イエスが心を注がれているのは、ただひたすら罪を犯したその兄弟のことです。
15節に先立って12節からで、私たちが一度聞いたら忘れることの出来ない有名な話が記されています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」あなたが傷つけられたかどうかが問題なのではない。罪を犯したその兄弟が滅んではいけないのです。その兄弟の罪によってどれほどあなたが傷つけられておろうとも、その人が滅ぼされてはならない。一匹だけ迷い出てしまうような過ち多き羊です。しかしその迷いのゆえに滅びることをイエスさまは欲されないのです。
ある人は、この主の言葉は、「いわば裏からも読まなければならない言葉だろう」と言っています。このように罪を犯した人を訪ねなければならないという事を聞くと、果たして教会の中では誰のことかと、自分の周囲を見回すかもしれない。しかし罪を犯し、誰かの訪問を受けなければならないのは、他でもない私ではないだろうか。その通りだと思います。
パウロが「私は罪人のかしら、キリストに救われるべき罪人の中でもその最たる者であった」と述べているように、私たちはみなそうであります。それが、神に見出され、罪赦されている共同体としての教会であります。「自分のような者は、人の罪を指摘することの出来るような者ではない」そんな声が聞こえてくるかもしれない。しかし主イエスはおっしゃるのです。そうではない、あなたが罪人であることを私はよく知っている。そのあなたのために、わたしは命を注ぐ。私は何も罪を暴露しあって生きるようになどとは少しも言っていない。ただ父なる神の憐れみに生きるために、あなたがたが罪人であることを、いつも誠実に受け止めなければならない、教会は罪を真剣に問わなければならない、そのことをよく分かってほしい、そのようにおっしゃっているのです。
この話の後には、ペテロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねた話があります。この時、主イエスは「そうではない、七の七十倍まで赦せ」と答えられました。そして一万タラントン、これはもう普通に返していけば一生かかっても絶対に返しえないほどの莫大な額ですが、その1万タラントンもの借金を棒引きにされた家来のたとえを話されました。私たちは皆、その家来のように償い得ないほどの罪を神に赦された者なのだから、七の七十倍、これは単に490回という意味ではなく、際限なく赦せとおっしゃるのです。
主が私たちに告げられているのは、教会がこのように集まることが出来るのは、お互いに信頼し合っているからでも、またよく知り合っているからでもない、皆が善人だからでは当然なく、ただただ主が私たち一人ひとりを赦していて下さるからだという一点にかかっているということです。一人ひとりの罪を神は赦して下さっています。イエス・キリストの十字架を掲げ、それを仰ぎ見るより他ありません。「十字架によって、ただ救われよ」と他人のみに呼びかけるのではありません。「私はこの十字架によってのみ、生きることが赦されている」ということを、先ず自分自身が言い表すのが十字架を担う教会の姿であります。
そうであるならば、そうやって毎日ただ主の赦しの中で生きるのであるならば、その主の赦しに背く罪を、私たちは無関心でほっておいてよいはずがありません。罪の中に留まり続けることは、主の十字架の赦しが軽んじられることになります。そのことを私たちはいい加減にするわけにはいきません。一人の兄弟が罪を犯し、しかもそこに悔い改めがなければ、その赦しの恵みの流れがそこで堰きとめられます。その人の命の流れが止まるのです。その人の罪を責め立てて、私たちの正義感を満足させるためでは毛頭ありません。その人のところに赴かざるを得ないのは、その人と共にもう一度、この罪の赦しの恵みの中に立って「神よ、我らを赦したまえ」という祈りをするよりほかないのです。
17節の終わりには、教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とあります。ユダヤの人たちにとって、異邦人は神を信じていない者、徴税人はユダヤの民としてふさわしくない行ないをしている者を意味しますから、そのように教会の申し出を聞き入れない者は、異邦人や徴税人のように、教会の交わりの外に置くことを意味する。そのように理解されてきました。具体的には、古来より、陪餐停止、主の晩餐に与れないペナルティーが科されてきました。しかし、イエスさまは異邦人や罪人たちをご自分の交わりの外におくようなことはなさいませんでした。イエスさまは、異邦人や徴税人たち当の本人以上にその罪を真剣に受け止められました。そして「わたしは罪人を招くために来た」「私は彼らと食事をするために来たのだ」と何度もおっしゃり、そのように実践されました。異邦人か徴税人同様にみなすということは、その人を主イエスの最も近いところにもう一度置くことをも意味するのではないでしょうか。私たちの手には負えません。主よ、お願いしますと、イエスの御手に委ねることではないでしょうか。
陪餐停止という処置を支持していた宗教改革者のルターも、聖餐に与ることが許されない人であっても、礼拝の説教には招かれなければならないと言っています。すなわち、罪の赦しの見言葉を聞いて、一日も早く悔い改めて、主の食卓に与れる日が来るように、私たちが全力を挙げなければならないのだと理解したのです。
最後に、15節の「あなたの兄弟を得たことになる」という言葉についてふれて終わりたいと思います。「兄弟を得た」何とも少し違和感を感じさせる言い回しだと私には思えました。そこで調べてみましたら、実際ここには「利益を得る」「得する」という意味の言葉でした。言い換えれば、兄弟を失い続けている教会は損をし続けているということです。どんなに献金の額が多くなっても、どんなに教会員数が増えたとしても、罪を犯した兄弟を回復させることが出来ない教会は、損し続けているのです。兄弟を獲得することそれこそが、私たちの最大の利益であり、神にとっても最大の利益、大きな喜びなのです。
罪とは、神から離れて生きることです。罪を犯した者を導き、その人を私の兄弟として回復する者は、自分自身が大きな利益を得るのです。そのように、神のために、その兄弟の利益のために生きる時に、私たち自身が最大の利益を得ることが出来るのです。教会がそのように歩み、恵みに生きる群れとなればと願います。お祈りをします。
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