「地の塩、世の光として」


 マタイ5章13〜16節 
 2007年11月25日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さんお帰りなさい。週報にも記しましたが、今治教会での西ブロックの修養会に教会から子どもたちを含め15名で、金曜日に行ってまいりました。講師の泉先生を通して、「苦しみの中にも」神さまの恵みと導きがあることを、先生ご自身の歩みからまた様々な信仰者たちの例から教えられ感謝でした。また、日頃なかなかもてない連合内の他の教会との交わりも持つことが出来感謝でした。子どもたちも他の教会の子どもたちと触れ合うことが出来たことも良かったと思います。お祈りとお支えをありがとうございました。

 本日25日〜来月2日までは世界バプテスト祈祷週間です。これは女性連合を中心に、連盟の世界伝道の働きを覚えて祈る時であります。今月ひと月女性会の方によってインド、タイ、そして本日のルワンダの状況についてお話がありました。また、本日は祈りのカレンダーが配布されました。本日から2日まで毎日祈りの課題が与えられています。是非その課題に合わせてお祈り下さい。現在派遣されている宣教師の先生方や詳しいことは、掲示板の国外伝道ニュースをご覧下さい。

 早いもので11月も最後の週となりました。来週からは待降節、アドベントに入ります。今月は、「教会」という主題の元に、ひと月み言葉を取り次がせていただきましたが、その最後の週の聖書箇所は、先ほどお読みいただいたマタイ5章13節からの、よく知られた「地の塩、世の光」の話です。今日もご一緒に主の福音のみ言葉から聞いてまいりましょう。これはマタイ福音書において山上の説教と呼ばれるものの一部です。「あなたがたは地の塩、世の光である」、これは主イエスの言葉の中でも特に有名な言葉の一つであります。

 「地の塩」とはどういうものでしょうか。「地の」とは、この世界のということです。そこにおいて「あなたがたは塩である」と主はおっしゃいます。塩はなくてはならないものです。人間は塩分なしには生きていけません。また料理の味付けにもなくてはならぬものですし、塩は防腐剤としての働きもします。食物を保存するには塩は最も有効です。清めのための働きもします。イエスさまは「あなたたちはこの世界にとても素晴らしい味をつけまた、この世界を清めていく存在なのだよ」とおっしゃって下さっているのです。

 「世の光」はどうでしょうか。これはもっと直接的でわかりやすいことかもしれません。私たちが光として輝き、この世をこの社会を明るく照らす。「あなたがたはそんな存在なのだよ」と言われているのです。
 でも、イエスさまからそのように言われて、胸をはれる人はおそらくほとんどおられないでしょう。たじろがざるをえないというのが正直な気持ちではないでしょうか。「自分にはそんな力はありません。地の塩や世の光の働きは出来ていないし、そんな存在にもなれっこありません」そう言いたくなる人の方が多いのではないでしょうか。しかし主イエスは、「あなたたちが私に従って来て、私の教えを守るならば、そうなれるよ」とおっしゃっているのではありません。ここでは「あなた方は既に地の塩、世の光なんだよ」と宣言して下さっているのです。

 聖書は、私たちは生まれつきの罪人であり、何の力も持たないものであると教えます。そうであるなら、私たちに自分の力でこの世界を味付けたり、世界を照らす力のないことは明らかなはずです。ではどうして、主イエスは「あなた方は地の塩、世の光である」と断言されるのでしょうか。このことを考えるために、この話が誰に向かって語られているかから見ていきたいと思います。
 この時イエスさまは誰に向かって語られているか、それはこの山上の説教の最初に記されています。5章1,2節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」

 大勢の群衆が主イエスに従って来ました。その群衆をご覧になって、主は山に登られ腰を下ろされました。腰を下ろすとは、通常ユダヤ教の教師であるラビが弟子たちに教える時にする行為です。だから弟子たちはすぐにイエスの近くに寄ってきたのです。そこには当然、従って来た群衆たちもおり、弟子たちと一緒に主イエスの話を聞きました。この人たちは、この時までにイエスにあらゆる病や患いをいやされた者たちでしたが、中にはお金持ちもいたかもしれませんし、大した不自由もなく普通に暮らしていた人もいたでしょう。しかし聖書が注目するのは、焦点をあてるのはそういった人たちではなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」たちのことです。すなわち自分の力では何も出来ない人、弱い立場に置かれ苦しんでいた人たちでした。また、ここでの「あなた方」とは今日の箇所の直前の「幸いである」と宣言されている人たちのことだと言えます。11節にあるように、「イエスさまのためにののしられ、迫害され、見に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人たち」です。そういった人たちに向かって、主は「あなた方は地の塩、世の光である」とおっしゃったのです。

 病や患い、試練や生活の苦しさから、逃げ出して、主イエスに従って来た人、そんな中からイエスに救われた人たち、そんな人たちに向かって「地の塩、世の光である」と主は宣言されるのです。私たちは皆、罪人であり、貧しく小さな者です。神さまはそんな私たちをお見捨てになることはありません。そんな愚かで小さな者たちが、主に従って行く時に「地の塩、世の光」とされているのです。そうなるのではない、そうされていくのです。

 でも、それでも、私たちは「自分のような力のない者が、この世界を清めたり、この世を明るく照らす存在になれるのだろうか」という思いに戻ってしまいます。それはこの時の弟子たちや群衆も同じであったろうと思います。弟子も群衆も、この世的に価値のあるものは何も持っていませんでした。能力の面からも優れたものがあったわけではないでしょう。それは私たちも同じです。しかしてそれでも、そんな者たちに向かって主イエスは「あなた方は地の塩、世の光だ」とおっしゃるのです。そして聖書の語る真理においては、弟子や群衆そして私たちは「地の塩、世の光」なのです。その理由が明確に記されている箇所があります。使徒言行録3章、新約聖書217ページをお開き下さい。3章1節からをお読みします。

 「ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、『わたしたちを見なさい』と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。』次のページの16節「あなたが見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」

 ペテロもこの世的に価値のあるものは何も持っていませんでした。しかし、ペテロはイエス・キリストを知っており、イエス・キリストを通しての神さまの愛を信じたのです。このイエス・キリスト、そして神さまの愛こそが私たちに与えられている塩味です。真の光です。イエス・キリストの十字架と復活を経験したペテロは自分の内側に塩があり、光があることを知っていたのです。主イエスが自分と共にいて下さる、自分の内側にいて下さることによって、自分自身が塩とされ、光とされて行く事を知っていたのです。イエス・キリストと出会って世の中に出て行き、イエス・キリストに仕えていく。そしてそのことを通して、出会う人々にイエス・キリストを知らせていく、それこそが「地の塩、世の光」とされていくということに他なりません。

 となると、16節の「あなたがたの立派な行い」というのも、単に人に誇れるような優れた行いということではありません。これはニュアンスからすると、「魅力的な行い」と訳すことも出来る言葉です。つまり、人を惹きつける行い、何に惹きつけるか、それは、私たち自身にではありません、私たちに現れている天の父の深い愛と憐れみに人々が惹きつけられるのです。私たちにするように勧められている行いとは、人々が天の父を崇めるようになるための魅力的な行いのことです。
「地の塩、世の光である」は、私たちの努力というか到達目標ではありません。そうではなく、イエス・キリストの十字架を信じ、その十字架の贖いのみ業によって罪赦された者の結果の姿です。主イエスに従っていく時、もう既に私たち一人ひとりは「地の塩、世の光である」のです。

 しかし、私たちが塩気をなくす可能性があることも、ここには記されています。実際に塩が塩気をなくすことはないでしょうが、もし塩が塩の働きをしないでただ置いておかれるだけならば、それは意味の無い物となってしまいます。味付けをしない、また清めの働きをしないなら、それは死んだも同然なのです。自分自身がイエス・キリストによって味付けられ、救われた喜びと愛に満たされればそれで十分であるかのように、その塩味を自分の中に閉じ込めておいてはなりません。光も同じです。ランプの光を升の下に置いたらなどうなるでしょうか。油を足すことも出来ず、光そのものも消えてしまうでしょう。燭台の上に置かれて物を照らしてこそ、光の役目が果たせます。自分を照らすためだけに光を用いてはならないのです。「地の塩、世の光」とされたものには、それぞれに新しい使命が与えられています。それは真の塩であり、光であるイエス・キリストを証していくことです。

 私たちをあるがままで「地の塩、世の光」として下さっていることに感謝しましょう。そして私たちを「地の塩、世の光」として下さった方から離れず、その方のことを証し、「地の塩、世の光」として、今日の礼拝から世の中に遣わされていきましょう。お祈りをします。



 

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