「メメントモリ」 元旦礼拝  


 詩編90編
 2008年1月1日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 新年あけましておめでとうございます。新しき年となりました。この1年間が皆さんにとって、主と共に歩む恵み深い年となるようにお祈りいたします。

 日本の全ての教会ではないと思いますが、その多くの教会で、このように元旦礼拝が守られていることだと思います。初詣に神社に出かけるのが一般的な社会にあって、私たちキリスト者も、このように一年の最初の日に、神さまの前に出て、神さまを礼拝することは素晴らしいことだと思います。私たちキリストを信じる者にとっては、礼拝をすることが生活の支柱であり、その生活を築いていくためのものであります。

 先日も、教会で結婚式をあげることを希望される方がいらっしゃってお話をさせていただいたのですが、教会は礼拝を大切にする、そして結婚式も葬儀も礼拝として行なうことをお伝えしました。それは礼拝することが神さまへの感謝の応答であるということです。そしてそこには神さまへの信仰が当然、根底にあります。その信仰をもって今年も礼拝者として歩んでいきたく願います。

 元旦の本日に与えられた聖書の箇所は、詩編90編です。ここには人生のはかなさが表されています。人は有限なる存在であり、生きることは無常である。人の命が花や草にたとえられています。5節「朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。すべての肉なる者は草のごとくに、あしたには栄え、夕べには枯れる定めなのです。何人たりとも死から免れることは出来ない。人間の寿命がたとえ1年であれ、100年であれ、昨日が今日へと移る夜のひと時に過ぎない、と歌う。神の目から見れば、たとえ1000年と言えども、一瞬のことなのです。ペトロの手紙二3章8節でも「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とあります。

 それゆえ、有限なる存在である人間は、絶対者なる神の憤りを恐れます。しかしこの詩人は、その神の怒りの原因が自らの罪にあることを自覚しています。8節「あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます」そして人の人生は70年ほどであり、健やかに生きたとしても80年に過ぎませんが
、その人生で得るところは労苦と災いに過ぎない、だからこそ、「神を畏れ敬うこと、そして生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることが出来るように」と祈っているのです。

 この詩編が述べていることはひと言で述べるならば、何でしょうか。それは「死を忘れるな」ということだと思います。昨年の週報の巻頭言でも一度書かせていただきましたが、人生という旅には必ず終わりがやってきます。全ての人に平等に死はやってきます。問題はそれが早いか遅いかだけです。本日の宣教のタイトルにしました「メメントモリ」とは、ラテン語で「汝の死を覚えよ」という意味の言葉で、中世の修道士たちはこの言葉を合言葉として互いに呼びかけ合っていたと言います。

 現代という時代は、生きることばかりが強調されて、死が隠されてしまっているように見受けられます。現代人と言えども、死を一切意識しないということはないでしょう。いや、と言うより、意識するからこそ、かえって死を避けよう、死から目を背けようとしているように思えます。逆説的な言い方になりますが、死を明確に意識することで、より充実した生が始まるのではないでしょうか。死を意識し、人生の旅の終幕から「今」を見つめ直すことで、より良き生を生きることへと開かれていくのです。

 私たちは地上に生を受けて、そして全ての人はその生涯を終え死んでいきます。人生とは、誕生と死の間にあるひと時の時間の流れです。しかし多くの人は人生がこの限界の中にあることを認めることに抵抗しているように見受けられます。だから近親者が死んだ時などは、「死んではならないはずのものが死んだ」と、そのことを矛盾ととらえ、苦しみます。特に幼い子や壮年者が死んだ時ほど、死の痛みは大きなものとなります。聖書は「我々人間は死という限界の中にあることを覚えよ」と求めています。「生涯の日を正しく数えるように教えてください」と、詩人は述べるのです。

 この人は生涯の日を正しく数える、それは死ななければならない存在であることを私に示してください」と求めているのです。これはあまりにも当たり前のことのようにしてしまっていますが、とても重要なことです。なぜなら、私たちはどうしても、自分たちは死ぬべき存在であり、人生は一回限りのことであるという現実から目を背けようとしてしまうからです。死について考えない生き方とは、今のこの生、生きるということについても考えない生き方となってしまうのです。

 私たちは死を考えまい、忘れようとします。その試みの一つが「魂の不死、あるいは霊魂の不滅」という信仰です。人は死にますが、それは肉体が滅びるのであって、魂は不滅だとするものです。古代以来多くの人がそのように信じてきました。

 もう一つの考えは、生を肯定することを通して、死から逃れようとすることです。「私はまだ死んではいない、そしてまだ死までは時間がある。だから死のことなんか考えずに今の生を楽しもう」とするものです。しかしこの考え方も根本的な解決にはなりません。なぜなら、遅かれ早かれ死は誰でも必ずやって来るからです。 

 聖書は、この両方の考え方ともごまかしの生き方だと指摘しています。そうではなく、人間は有限なる被造物に過ぎない、死に対する決定権は自分にはないことを認めることを求めます。そうすることで、創造者である神を思う心が生まれるのです。死を恐れずに死と向き合うことは、創造者なる神を覚えることから始まります。

 詩人は「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が人の世が生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」と歌います。神は私たちを創造されましたが、私たちはいずれ死にます。それは私たちの罪のためだと詩人は言います。このことから逃れる道は罪の赦ししかありません。それゆえ詩人は、「主よ、帰って来てください。いつまで捨ておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」と祈ります。神は罪のゆえに人を死に渡されますが、同時に人の求めに対して応えて下さるお方であることを彼は信じています。それゆえに「朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」と願うのです。

 私たち人間が、死を完全に恐れなくなるということはないように思います。死、それは人間にとって本能的に恐れの対象だからです。今日のこの詩人も主の怒りに触れることを恐れていますし、それは死を恐れていることにつながります。しかし、この詩編は死を踏まえて、生のあり方を考えています。日本においては、一般的に死というものを忌むべきものとする考えが根強いように思えます。喪中における遺族の行動を制限したり、葬儀に関わったものを排除しようとすることもその表われなのでしょう。死を踏まえることとは、命を見つめることであり、命を真剣に見つめるということは死を排除しないことであります。

 私たちの命は神から出て、神に帰っていきます。この命は神から与えられたものです。そしてそのように信じることが、私たちの神への信仰であります。私たちはいつか必ず死にます。それは神の元へと帰っていくことです。それが私たちの命です。いつまで地上での命が続くのかはわかりません。それは儚いものだともいえます。しかし、神から与えられた大事な命です。だからこそ、その命を大切にするためにも、死から目をそむけず歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。



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