「よきスチュワードとして」  


 Tペトロ4章7〜11節
 2008年1月6日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




  皆さん、お帰りなさい。今年も新年最初の主の日をこのように礼拝することで、迎えることができますことを心より感謝申し上げます。スチュワードシップに関しては、例年2月に取り上げていたのですが、聖書教育では、今月1月がスチュワードシップを考える月となっていますので、それにあわせて、今年は、この1月をスチュワードシップについてご一緒に考える月とさせていただきました。

 このスチュワードシップという言葉は、他の教派ではあまりというか、ほとんど用いられることがないものです。スチュワードシップとは、一言で言えば、神さまの恵みに対する応答となるでしょうか。神さまが与えて下さっている多くの恵みに対しての態度の表明です。私たちが与えられて持っているものは全て神さまからいただいた恵みですが、その恵みに対する応答として、ふさわしい時に神さまに献げること、それがスチュワードシップです。受けている恵みであるその持ち物を、私たちは責任をもって管理することが求められています。スチュワードシップとは、よきスチュワード、管理人であること、すなわちこれらの恵みの管理人であることであります。それは私たち一人ひとりに求められている生き方であると共に、教会のあり方をも示しています。イエス・キリストを通して与えられた恵みとわざに対して、教会と人がなすべき応答であります。

 このスチュワードシップという言葉が歴史上最初に用いられるようになったのは、19世紀後半のアメリカの教会においてでした。独立以前のアメリカでは、母国であるヨーロッパの教会が、この新天地に移住した移民の群れである教会に対して教会税を徴収していましたが、これに対しての強い反発があり、最終的には廃止されることとなりました。けれどもそのことで、経済的サポートを失うこととなり、新天地のアメリカの教会の財政は危機に陥ることになってしまいました。その時、一信徒の呼びかけによって自発的な献金運動が起こり、それがやがて献金だけでなく、自発的な奉仕を目的とする信徒の運動となって広まっていきました。そしてこれらの運動がスチュワードシップという言葉で呼ばわれるようになっていったのです。

 またイギリスでは、第二次世界大戦によって多くの教会の建物が破壊され、その修復のために教会の財政は危機的状態へと陥りました。そのため1950年代に盛んにスチュワードシップのキャンペーンが行なわれ、自発的な献金によって財政危機から救われました。そこから単なる献金を増やす運動だけでなく、神さまの恵みに対する応答のわざとしてスチュワードシップは、教会に定着していったのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙の中で「わたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」(T4章2節)と述べています。管理者すなわち、これがスチュワードです。管理者には委ねられた財産を運用する手腕が求められますが、それだけでは良きスチュワード、管理者とはなりえません。管理者には、それを任された主人に対して忠実であることが求められます。これは、「自分の立場をわきまえ、主人の所有権を侵さない」ということであり、また同時に主人が何を期待し、どのようにその財産を運用することを望んでいるかを考えることを含んでいます。

 イエス・キリストを救い主と告白するキリスト者は、あの母マリアが「わたしは主のはしためです」と告白し、イエスの母となっていったように、「私は主のしもべです」との告白が求められます。ですから私たちクリスチャンに求められるスチュワードとしての要件は「主人であるイエス・キリストに忠実であること」です。

 スチュワードシップにおいては、往々にして献げることが強調されます。献げることは重要です。具体的には、神さまから与えられている才能、賜物を献げる、また時間を献げる、そして財産、富を献げる、これらはスチュワードシップにおいての具体的な応答の業であることは確かです。しかし、それらが何に基づいて献げられるのかを明確にしておかないと本末転倒なことになりかねません。時間と賜物を献げて教会の奉仕をし、また多くの献金を献げること、それらのわざが、行為を行なうことが目的ではないのです。そこには主に仕えること、神さまがお持ちのご計画、御心にそうものであるように心がけることこそが重要なのです。神さまのご計画がどこにあるのかを求めることを忘れてしまっては、それらのわざは、私たちの自己実現の行為、自らの栄光を求めるものとなってしまうからです。本日与えられた聖書、ペトロの手紙一4章7節以降には、よき管理者、スチュワードたるものが心すべきことが記されております。

 ここでは「万物の終わりが迫っている」ことが書かれています。この手紙が書かれてから既に2000年の月日が流れています。そして今もまだ世の終わりの終末の時は来ていません。しかしここで私たちが先ず第一に心しないといけないことは、世の終わりがいつ来るかということではありません。この世の始まりが、天地創造の神のわざとしてあったように、その終わりの時も確かにあるのであり、そして天地創造が神のわざであったように、「万物の終わり」も神のご計画のもとにある神さまのみ手のうちにあることだということです。だからこそ、ここでペテロは「思慮深く、身を慎み、祈る」ことを勧めています。

 私たちは弱さを抱えた者ですから、万物の終わり、終末のことを考えると、そちらにばかり思いが行き、また終末に向かって起こっていくであろう出来事に対する不安と心配にとらわれて、地に足のつかない日常の歩みをしかねません。そのような時こそ、思慮深くふるまうことが求められますが、そのためには祈ることこそが重要となってきます。神に向かって祈ることで、自らを神の恵みを管理するものへと導かれていくのです。祈ることで、神さまが行なおうとされていることを知ることが出来、そのために自らを献げることが可能となっていくのです。

 10節に記されているように、私たちにはそれぞれに賜物が授けられています。そしてそれを、神の恵みの管理者として用いるように、ペテロは勧めています。11節では「語る者、奉仕する者」について語られていますが、そこで鍵となってくるのは、その与えられた賜物を何のために用いるかということです。からだ、時間、賜物、財産、これらのものは神さまから与えられているものですが、それらは私たちが自分の欲求や必要を満たすために与えられているものではありません。自分の持てるものを自分の喜びのために用いたいという誘惑に駆られますが、そうではなく、他者のために用いることがスチュワードとしての具体的なあり方だというのです。それは10節にあるように、「互いに仕え合う」ことであり、また8節にあるように「心を込めて愛し合う」ことです。仕え合い、愛し合うこと、これが神から与えられた多くのものを管理するよきスチュワードとしての道となります。

 11節の最後のことば
「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが世々限りなく神にありますように」

 これは頌栄、神の栄光を讃美する言葉です。神から与えられている全てのものを他者のために用いること。今も述べましたように、仕え合い、愛し合うこと、それは私たちスチュワードとしての具体的な行為のあり方ではあります。しかしそれがどんなことであっても、家族のために尽くすこと、助けを必要としている人を手助けすること、教会の様々なわざにかかわることなど、それらがどんなことであっても、よき管理者は神の栄光をあらわすことを第一の動機とするべきです。なぜなら、全てのことは神がご支配なさっているのであり、この世が造られた目的、私たちに命が与えられているのも、すべて神さまが栄光をお受けになるためだからです。「すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるため」これこそが神の御心であり、そのことの実現を神は望んでおられます。私たちはつい自らの栄光を求めてしまいます。どんなに人に仕え、どんなに人を愛する奉仕のわざに励んだとしても、それはそれで意味があり尊い行為ではあるのですが、私たちの心の中にある思いが自分の栄光を求めることにあれば、よきスチュワードとはなりえません。なぜなら、スチュワードシップの鍵は、神の栄光を表すことだからです。お祈りをしましょう。いつものように、少し黙想の時をもちます。


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