「真の霊性とは」  


 Tコリント3章1〜9節
 2008年1月13日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔




 皆さん、お帰りなさい。今月はご一緒にスチュワードシップについて聖書から聞いております。私たちは神さまから多くの恵みをいただいております。その与えられている多くの恵みをいかに管理し、用いていくかがスチュワードシップです。スチュワードシップにおいては、献げること、特に献金のことが取り上げられることが多いですが、先週も見ましたように、それが何に基づいて献げられるのかを明確にしておかないと本末転倒になってしまいます。献げること自体が目的なのではありません。それらを通して、神さまに仕えていくこと、そして御心にそうものであることに心することが求められます。そのためには「思慮深く、身を慎み、祈る」ことが求められます。神さまの御心を尋ね求め、そしてそれを用いることで、互いに愛し合い、仕え合うことを通して、神さまの栄光を表していくこと、そんなことを先週は共に学びました。

 さて、スチュワードシップについての第二週目の今週与えられた御言葉はコリントの信徒への手紙一の3章です。ここは6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」がよく知られている箇所です。ここにおいて、著者のパウロは手紙の相手であるコリントの教会の人々の未熟さを声高に訴えています。それも1節の「わたしはあなたがたには霊の人に対するように語ることができず」とあることからも、この教会の人々が霊的な側面において特に幼稚であると述べています。スチュワードシップと霊性、一見するとそれほどの関連性が感じられないように思えますが、聖書教育誌において書かれているように、「スチュワードシップは、霊性の成長と密接な関わり」があります。それは、先ほども述べたように、スチュワードシップとは、時間や賜物、そして財産を献げることを通して、人と神に仕えていくことであるからです。霊性から断ち切られた奉仕は、人に仕えることにはなったとしても、真の意味での神に仕えることにはならないからです。今日は、神に仕えていくためにはどのような霊的成長が必要であるか、霊性における成熟について、共にこのコリントの手紙の3章から学んでみたいと思います。

 ここ1,2年の世相は、スピリチュアルブームの様相を呈しています。スピリチュアルカウンセラーと称する人物がテレビでもてはやされ、書店においても、スピリチュアルとか霊性とかいう言葉が売れ筋の本のキーワードとなっているように思えます。物質的なものへの期待が飽和状態となり、人々の思いが精神世界へと向いているからでしょう。自らの生きる目的を見出しかねている人々の思いが表れているように思えます。
 さて、当時のコリントの教会の信徒たちもさまざまなことに振り回されている姿があったことだと思われます。「霊的」とか「霊性」というような言葉を人々は頻繁に口にしていたのかもしれません。しかしパウロの目から見ると、その姿は非常に幼稚なものでありました。霊の人に対するようには語れず、乳飲み子に対するように語らねばなりませんでした。それは彼らが霊の人ではなく、肉の人だったからです。コリントの教会は最初からそうでした。しかし過去のことは良いのです。「かつて」はもう過ぎ去ったものです。問題は「かつて」ではなく、「いま」です。「かつて」は「いま」に依存していますが、「かつて」に意味を与えるのは「いま」の方です。そこには、世の知恵の誇りはあるとしても、依然として神の知恵への成熟はみられず、「いま」は「かつて」の単なる延長であるに過ぎません。まだ「固い食物を食べる力がないまま」であることが問題なのです。それは教会としてはまことに「異常なことであり、恥ずべきこと」なのであります。

 ここで言われている、パウロがコリントの教会に与えたとされる「乳」が具体的にはどんなことを指しているのかを断定することはできません。しかしそれは、コリントの人々がキリスト教の基本の教えについては一応の知識は持っていたものの、更に進んで固い食物を取るには至っていなかったということです。固い食物を取ることのできる者が乳飲み子ではなく、成人(大人)ということになるのですが、それは神の国の奥義を有するものであることです。幼子はそれを有せず、3節にあるように「ただの人」のままで生きています。ではその神の国の奥義を有していないという、ここでのコリント教会の人々の状態とはどんなものだったのでしょうか。
それは3節にある「お互いの間のねたみと争い」です。彼らは、教会内で、互いに嫉妬と紛争に終止していたのです。

 妬みの原因は、彼らの自己中心性でした。自分の欲する欲望のままに生き、神にある生活へと切り替わってはいなかったことをパウロは指摘しています。今の私たちの生活はどうなのでしょうか。自分の満足を満たすための生き方にとどまっているならば、それはここでパウロの指摘している、コリント教会の人々がそうであった「肉の人」の状態にとどまっていることになります。表向きにどんなに宗教的敬虔さや指導性があっても、まことの霊性を生きることがなければ、肉の人であり、霊における幼児性から抜けきっていないことになります。

 もう一つは紛争、争いの中にある状態です。私たちが自分の満足や欲望を満たすことに集中する時、そこには統一よりも分裂が起こってきます。このことは必然です。それはそうでしょう。皆が自分の欲求を満たすことに心を傾ければ、その群れの中に争いが起こるのは当たり前のことです。そしてそれが分裂へと発展していくのです。パウロはそのことを力説します。ねたみと争いが分裂を生じさせるが、それこそは聖霊の働きではなく、肉の働きであると。

 では、どうすればよいのか、そのあるべき姿をパウロはこの箇所の後半で示しています。それは一言で言えば、謙遜に生きることであり、具体的には、他所に仕えることと、神により頼むことです。真の霊的成長は、謙遜に生きることで、それは自分の中心と生き方から、焦点を自分から他者、隣人と神へと移すことになるのです。

 当時のコリント教会の内部には、派閥があったようです。そしてそれぞれが別れて互いを妬み、争い、この教会は分断されてしまっていました。ある人は、「私はパウロに」とパウロ派を、また別な人は「私はアポロに」と言って、アポロ派をつくっていました。確かにパウロが植え、アポロが水を注ぐ働きをしたでしょう、しかしパウロもアポロもそれぞれ主がお与えになった分に応じて、他者に仕えた人に過ぎません。どちらが優れているとか、どちらがリーダーたるに相応しいというようなものではない、彼らのリーダーシップは他者に仕えることにおいて発揮されたのだ、とパウロは述べます。それぞれに役割が違ったのであり、彼らはただ人々にそれぞれの役割を通して仕えたに過ぎません。そのように、人に仕えることによって、霊的成長は促されるのです。それは、人からの評価を求めることではなく、他者が必要としていることに自分自身が目覚めさせられていくことです。これが霊的成長の一つのあり方です。

 もう一つは、神により頼むことです。私たちがどんなに忠実にその任じられた役割を行なったとしても、その業自体で、事柄が全うされるのではない、植える人と水を注ぐ役割の人がどんなに忠実にその業を全うしたとしても、それ自体で成長し花が咲くわけではありません。成長は全て神によってもたらされるのです。そのように成長が神によってもたらされることを深く心に刻み付けて、神により頼むこと、それが霊的成長の第二の側面です。

 最初にも述べましたように、今の日本、いや世界はスピリチュアル、霊性のことがブームのように取り上げられています。しかし、それらが、単に物質的なことを超え、霊魂などの超自然的な事柄を問題にしているのであれば、それは真の霊性、特に聖書の説く霊性とは言えません。聖書が勧める、そして私たちイエス・キリストを信じる者にとっての霊性は、自分の生き方や欲求を満たすことに焦点があてられるのでなく、そうではなく、自分の周囲の隣人である他者に仕え、そして神により頼んでいくことにあるのです。
 霊において成長すること、その成長を求めていくことで、よきスチュワードとしての歩みは確かなものとされていきます。お祈りをします。



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