皆さん、お帰りなさい。スチュワードシップの学びも今日で3週目となりました。本日のテーマ、主題は、礼拝出席です。聖書教育にも書かれているように、礼拝出席をスチュワードシップの一環と言われると、不思議に感じられる方もおられるかもしれません。しかしスチュワードシップとは、神さまから与えられている恵みのよき管理人たる道のことですから、時間の用い方が良き管理人としてのあり方の中に含まれるのは明らかです。良きスチュワード、管理人には、時間を神さまに献げる、神さまのために時間を用いることが求められます。神さまのために時間を献げることの第一になされるべきことの一つが礼拝です。一般的な言い方として、私たちは礼拝をするとか礼拝を行なうと言いますが、礼拝を神さまを中心とする言い方で述べるならば、礼拝を献げると言うべきなのかもしれません。 さて、本日与えられましたテキストは、イザヤ書の56章です。イザヤ書は大きく1章から39章までと40章から66章までとに分けることが出来ます。そして後半の
40章からは、さらに55章までと、今日の56章から66章とに分けられ、最初の部分の39章までの著者が本来のイザヤであって、紀元前8世紀後半の王国の危機の時代にエルサレムを中心に預言活動をした。それに対して、40章以下の著者はその年代と共に不確かであって、一般に40章から55章までの著者を本来のイザヤとは別の第二イザヤ、56章から最後までの著者を第三イザヤと称されています。これらは、歴史的背景、文体、思想によって分類されています。エルサレムで活躍した第一イザヤと第二イザヤとの間には、約200年の時代の推移があり、第二イザヤは、南ユダ王国の滅亡と紀元前6世紀後半のバビロン捕囚というイスラエル民族の直面した苦境の中にあって、バビロン捕囚のユダヤ人の中から選ばれて、バビロンで活動した預言者であったと想像されています。その預言は、エルサレムの第一イザヤが神の審判、審きを語ったのに対して、第二イザヤの方は、神の慰めと解放、エルサレムへ帰れる希望を語っているのが特徴として挙げられます。今日の第三イザヤは、その精神的基調においては、第二イザヤと近いものが感じられますが、バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還の時代を経て、エルサレムに帰り、都が再建され、再び神殿礼拝が始められた時代、確定は出来ませんが、紀元前530年頃から510年頃ではないかと考えられています。
本日の56章1〜8節の預言の背景にあっているのは次のような状況でしょう。ペルシャのクロス王が神によって立てられ、バビロンは滅ぼされた。捕囚のイスラエル民族は解放されエルサレムに帰ることが許され、神の都の再建に着手した。そこでもう一度、第二イザヤの世界的な救いの宣言の意味をもう一度確認し、慰めとゆるしの御言葉を受け、主に対する信仰を新たにして、神の都の再建を完成させること。このような状況下に生きる民に、主なる神の言葉をもって、預言者は勧告したのです。
第三イザヤは、先ず1節において「正義を守り、恵みのわざを行なえ」との勧めを述べています。この「正義を守る」とは物事を正しい秩序ある状態に保つことで、「恵みのわざを行なう」とは神の御旨と律法にふさわしく行動することです。そしてこの勧めの根拠として「神の救いと助け」が近いことが宣言されています。預言者は民に悔い改めを求めていますが、ここでの悔い改めとは、ただ単なる心の向きの方向転換だけではなく、「正義を守り、恵みのわざを行なう」という社会的、実践的行動を含むものです。
そして2節で、ここでの教えの中心となっている「安息日を守ること」が強調され、そのことが幸いに至る道であることが語られます。ここでの「安息日を守ること」とは、ただ休息することではなく、主なる神への礼拝を献げることにあります。安息日を守り、主を礼拝することが真のイスラエル人のしるしなのです。 3〜5節は明らかに、第二イザヤから強調されてきた、世界主義の影響が見受けられます。ここでは、律法の規定では礼拝から除外されていた異邦人だけでなく、宦官、すなわち去勢した男性も「わたしの家、わたしの城壁に記念の名を刻む」と、彼らもイスラエルの民と共に礼拝へと招かれていることが告げられます。 宦官については、申命記23章1節で、彼らは礼拝から除外されることが記されています。3節の「枯れ木にすぎない」とは、子を産み残すことの出来ない、彼らの嘆きの言葉です。子どもが出来ないことは、祝福を受けることの出来ない存在であることを意味していたので、礼拝にも参加することは出来ないとされていました。しかし第三イザヤは、これらの去勢して子どもを残すことの出来ない宦官にも、イスラエルの民の中に特別の場所が与えられることを約束します。7節「わたしは彼らの聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」
最後の8節は、ここまでの預言のまとめの言葉です。「集める」という言葉が3回繰り返されています。主なる神は「追い散らされたイスラエルを集める」神であると第三イザヤは述べます。そしてそれは礼拝へと招き入れるために集めるのです。8節の最後の言葉「既に集められた者に、更に加えて集めよう」と、宦官や異邦人に対しても門戸を開き、それ以外の他の民の中からも新しいイスラエルの民として呼び集めることで結論付けられています。その中心思想は、すべての民のための一人の神、一つの民、一つの礼拝、一つの神殿であり、それは一つの新しい礼拝共同体の基礎であると言えます。 スチュワードシップとは、救いを得るための条件ではありません。これは神さまの恵みに対する感謝の応答です。第三イザヤの述べるように、すべての民が礼拝へと招かれています。それは神の恵みへの招きにほかなりません。その招きに応答するかどうか、それが問われているのです。救いは神から来るからです。 礼拝は義務ではありません。また救いの条件でもありません。私たちはそこに招かれているのであり、主は主を礼拝する者の名を刻み、その名を覚えていて下さるのです。
エフェソ書2章の8〜10節をお読みします。 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。なぜなら、わたしたちは神につくられたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行なって歩むのです」 ここで述べられている、善い業を行なって歩むこと、これがスチュワードシップです。繰り返しになりますが、これは救いの条件ではありません。そしてその善い業をなす時の土台となるのが安息日を守ること、すなわち礼拝です。礼拝に参加すること、主を覚えて礼拝を献げることが、クリスチャンとしての成長を促すこととなるのです。
今日のタイトルは、「あなたには居場所がある」としました。第三イザヤは、それまでのユダヤ民族のみではなく、異邦人や宦官までが礼拝に招かれていることを説きました。それは言い換えれば、すべての民に居場所があるということです。 現代人の多くはホームレスです。それは単に家がないというのでありません。それはハウスレスです。ホームレスとは、屋根つきの家がなく、公園や地下街で寝泊りされている方たちのことだけではありません。立派なマンションに住んでいても、庭付きの豪邸を所持していようとも、そこが心の安らぎの場、本当の意味でのホームでないならば、その人もホームレスなのです。
私たちはすぐに行き場を失ってしまいます。しかしそんな行き場を失ってしまっている者に対して、神さまは「あなたの居場所はここだよ」と呼びかけて、私たちを礼拝の場、この教会へと招きいれて下さっています。私たちの居場所、それが礼拝の場である教会です。ここにおいて私たちはありのままで受け入れられ、招かれています。私たちは礼拝することを通して、自分たちが何ものであり、そのわたしたちを本当に受け入れてくださっている造り主と出会うことが出来るのです。その恵み感謝いたしましょう。
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