「恵みのわざ」  


 Uコリント8章1〜15節
 2008年1月27日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。新しき2008年も早いものでひと月が経過しようとしています。この1月は共に、スチュワードシップについてご一緒に聖書から聞いてまいりました。今日はその四回目、献金についてです。この献金について教会で語る時には、いろいろと物議をかもし出すものであります。「愛や奉仕だと言いながら、結局のところお金かい」と思われる方もおられることだと思います。しかし、お金の用い方に私たちの心が表れるのは確かですから、スチュワードシップについて考える際に取り上げないことは片手落ちになります。本日は、コリント人への第二の手紙の中で触れられているエルサレム教会に対する献金の奨励の箇所から、神さまのみこころにかなった献げものとはどのようなものであるかについて見てまいりましょう。
今日の8章から9章の終わりまでは、エルサレム教会に対する献金の奨励と指示が記されております。この献金は使徒言行録15章に記されておりますエルサレムで開かれた使徒会議において要請されたものです。それは、下層階級に属し、ユダヤ教徒たちの弾圧のために貧困に甘んじなければならなかったエルサレム教会の信者たちに対して献げよと企てられたものだと思われます。
パウロは献金問題について論ずるにあたって、まずマケドニア州の諸教会の例を紹介しています。初めから指示命令するのではなく、姉妹教会の様子を知らせることで、コリント教会の教会員の心の中に信仰的共感が生ずることを期待してのことだと思われます。
2節「彼ら(マケドニア教会員)は苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」

 マケドニア地方は金や銀を産出する豊かな地方でしたが、この地方を征圧していたローマ人によってその利益は吸い取られていたと言います。そのためここで述べられている「極度の貧しさ」は自然的なものというより、迫害によるものと考えられます。この2節の「試練」と訳された言葉は、試験して試すことであり、またそれに十分に耐えて合格することも意味しています。でもその貧困は彼らを駄目にしたり挫折させることがなく、かえって彼らの実力を証明することになったのです。信仰の喜びのあるところでは、貧しさの中からなお人に与えるほどの豊かさが生じるというのです。

 パウロは今日のところで、献金を「恵み」、これはギリシャ語で“カリス”と言いますが、献金をこの「恵み」という言葉で表していることに注目したいと思います。彼はここでは「募金」という言葉を使わず、この“カリス”(恵み)と言う言葉だけで敢えて通しているのです。これは新共同訳では4節と6節と7節では「慈善の業」と訳されていますが、全て原文では“カリス”(恵み)です。これは、元来、神の恩恵、特に値なき者に与えられる無償の恩恵を表す言葉です。金銭も神から与えられた恵みの一つに違いありません。この恵みを自分の独占物のように貯めこみ握り締めておくのではなく、神の喜ばれる方法で、他の兄弟たちもその恵みに与れるように配慮すること、これこそが良きスチュワード、神の恵みの良き管理人としてのあり方になるのです。

 この“カリス”には、1節や9節のように、人間に与えられた神の恩恵という意味も当然ありますが、今の4節、6節、7節では、神から与えられたその恵みに応える人間の善意のわざを表現しようとして、パウロは用いています。そのため、新共同訳はこれを「慈善のわざ」と訳したのでしょうが、「慈善」とすると、何だが慈善事業のように感じられてしまいます。口語訳では、これを「恵みのわざ」としており、こちらの方が本来の神の恵みに対しての応答のわざという意味合いを表現できているように思えます。神さまの無償の恩恵、恵みを真実に理解した者は、深い感謝をもって、兄弟たちに無償の恵みのわざを注ぐものとされるのです。神さまの憐れみは、それを受けた者に周囲の隣人たちへの憐れみを引き起こすものとなるはずです。

 4節の文章は、直訳すると「恵みのわざ、すなわち聖なる者たちへの奉仕の交わり」となります。「聖なる者」とは具体的にはエルサレム教会の信者たちを指しています。「奉仕の交わり」とは、「共同の奉仕をする」という意味にも、「奉仕をし合う」というどちらの意味にも解せられます。キリスト信者の交わりは、心情的に温かく打ち解けた交際だけに終わることなく、「他者と共に生き、他者のために生きる」群れとなることが求められます。それは主イエスの生涯は「仕える者」としての生涯であり、教会は主イエスのこの「仕える者」としての生涯によって養われつつ、その主に仕え、互いに仕え合う群れであるからです。このような奉仕の交わりの中に入れられていること自体が“カリス”(恵み)なのです。「しきりに」と訳された言葉は、「多くの勧めをもって」ということです。マケドニア教会の献金活動はパウロが勧めたのではなく、マケドニア教会の信徒たちがパウロに願い出て自発的に行なったことだというのです。このような熱心な献金活動は、5節にあるように、その根底に自分自身を献げる、献身の決意がありました。献金するものが自分自身を主に献げ、自己とその所有の一切を主の手に託する時、献金はまことに主のものとなります。

 5節までで、マケドニアの教会の実情を記してきたパウロは、6節からはコリント教会の現状に焦点をあてて説いていきます。10節にもあるように、コリント教会においてのエルサレム教会への献金活動はこの前年より着手されていました。しかしどんな事情によってかはわかりませんが、中断されてしまいました。だからそれをやり遂げなさい、完成させなさいとパウロは勧めています。

 7節では「あなたがたはすべての点で豊かなのですから、この慈善の業、(恵みのわざ)にも富んでほしいと述べます。パウロはここで、コリント教会に与えられている神さまの恵みを挙げています。この教会は知的関心が旺盛であり、異言問題が生じるほどに熱心な霊的雰囲気もあったようですが、その反面、分派問題、不品行の問題など、多くの誤りと弱さも併せ持っていたのも事実でした。しかしパウロは、彼らの欠陥や誤りを指摘するのでなく、そのような欠けと弱さの中にもなおあふれ出る恵みを数えています。欠けを数えるときには不平不満が出てきますが、恵みを数えるときには、感謝と事を成し遂げようという意欲が湧いてきます。

 8節では、マケドニアとコリントの教会が互いに切磋琢磨し、互いの熱心さによって双方が向上することが期待されていますが、私たちを本当に高め導いてくれる存在は、他でもないイエス・キリストであることを次に力説します。そこにキリスト者のあり方とその根拠が示されています。
9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」

 「わたしたちの主イエス・キリスト」という何とも改まった言い方は、読むものに強い印象を与えて迫ってきます。私たちが神さまの恵みを心に思い浮かべる時に必ず行き着くのは主イエス・キリストです。その恵みはイエスさまの十字架に集中します。このお方ほどに、無償の愛からご自身がお持ちであったものにとどまらず、ご自身を与えつくされた方は他にはいないからです。

 今日の宣教後の讃美歌は、週報にあるように新生626にしましたが、実はどちらにしようか迷った曲があります。それは新生の176番です。「主は豊かであったのに」ご覧いただければ幸いです。
飼い葉おけの中に眠る主イエスよ 
あなたは貧しさの中に生まれてこられた
主は豊かであったのに貧しくなられた
わたしたちが主によって豊かになるために

 このパウロの言葉に、主イエスの生涯と十字架の意味が集約されているように思います。ここでの「豊か」「貧しさ」という言葉は、主イエスの地上の生涯での生活そのものの状態だけを指すのでなく、いやむしろ、神が人となってこの地上にお生まれに下さったという出来事を指しています。勿論、その歩みは生活レベルとしては貧しいものでしたが、その地上での貧しさの前に、主が人として生きられたという事実がすでに神としての栄光と祝福を打ち捨てて、試練と苦しみの末の惨めなほどの十字架の死を選ばれたことを意味しています。

 「主は豊かであられたのに、貧しくなってくださった。それこそは、わたしたちが主にあって豊かになるため」であります。ここでの豊かというのも、イエスに従えば、イエス・キリストを信じればお金持ちになるというのでなく、これは、主イエスが人間の罪を身にお受けになってくださったことで、人間に対する罪の赦しが確立され、人間が信仰をもってキリストの復活の命を受けることによって新しい人生が可能となるということです。
13・14節では、この献金に関して異邦人キリスト者の間に起こるかもしれない疑問に答えています。それは公平と正義の問題です。この献金が公平の原則に基づいていることを強調します。水の高きより低きに下るように、恵まれたキリスト者のゆとりが他者の欠乏を補うことが神の御心だと述べるのです。

 最後の15節の言葉は、出エジプト記16章の荒れ野で食べ物として天から与えられたあのマナの出来事です。多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。1日の分を超えて取った分は腐敗して食べることは出来なかったのです。この出来事に学びつつ貪りを廃し、自分に与えられた分に安心し、豊かに与えられたものを兄弟のために用いるように勧めています。

 私たちに神から与えられた多くのもの、それは私たちの必要を満たすためだけのものでは決してありません。多く与えられている恵みに対しての応答のために用いるのです。豊かなものが貧しいもの、欠乏しているものの欠けを満たす、そのように献げることが、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストに倣うものとしての生き方です。なぜなら「主は豊かであったのに、まずしくなられた。わたしたちが主によって豊かになるため」だからです。そのイエスさまの歩みにならって、献げる歩みがなせるようにと願います。
お祈りをしましょう。



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