皆さん、お帰りなさい。週報にも記しておりますが、早いもので今週水曜日は灰の水曜日で、この日よりレント、受難節に入ります。私もそうですが、プロテスタントの教会でも復活祭であるイースターに洗礼式が行なわれることは多くありますが、歴史的にはこのレントの期間は受洗のための準備期間とされてきました。その意味でも、この期間はただ単にイースター前の時なのではなく、自分自身の信仰のあり方、また神さまとの関係を再吟味する備えの時であります。どうぞこの時を大切に過ごして、主イエスの十字架と復活を我が物とすることが出来るように祈りつつ備えましょう。
今月の2月11日は信教の自由を守る日です。バプテスト教会にとって信仰、信教の自由は基本の考えです。絶対者なる神を信じるキリスト者は教会と国家の関係について模索し、ある意味戦ってきました。今月はその教会と国家について考えていきたいと思います。
今月の聖句は、フィリピ1章27節の「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」ですが、ここに用いられている「生活を送る」という言葉は「政治」という言葉の語源となった言葉です。私たちは神のご支配の下に身を置いていますが、同時に現実の日本という国家の元で日常の生活を送らねばなりません。その意味においては、私たちは天の国とこの地上の国の両方に国籍があると言えます。それゆえ、神を信じるキリスト者としてこの地上でどのように生活をしていくのか、どのように主に従っていくのかが求められています。今日は主イエスがローマの総督であったピラトの裁判の場面でどのような態度をとられたか、国に対する私たちのあり方を考えていければ思います。
主イエスを捕らえた人々は主イエスを大祭司カイアファのもとに連行した後、総督のピラトの官邸に引き出しました。他の福音書には、この間に祭司長とファリサイ派の者たちによって審きをお受けになられたことが記されていますが、ヨハネ福音書はその場面を描くことなく、直にピラトのところに連れて行ったとされています。祭司長やファリサイ派の者たちは、この福音書の11章で主イエスがラザロを甦らされた時に、当時の最高議決機関であるサンヘドリンのメンバーを召集して「このままにしておけば、人々は皆この男を信じるようになる。そうすると、ローマ人がやって来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」と考えて、主イエスを殺すことを既に決断していました。群衆たちがナザレのイエスを頭に祭り上げて騒ぎ立てば、ローマ軍がその事態を平定することになってしまう。彼らは一人の人間が民の代わりに死んで国民全体が滅びないで済む方が好都合だ、だからイエスをローマの手によって殺させることにしようと決めていたのです。そのような思いで、彼らは主イエスを総督ピラトのもとに連れて行きました。しかし彼ら自身は、総督の官邸に入らなかったと書かれてあります。異邦人である総督の住まいに足を踏み入れることは、律法の定める汚れにあたるからです。汚れた身では過ぎ越しの食事に加わることが出来なかったからです。自分たちは聖さを保ったまま過ぎ越しの食事に与る、手を汚すことなく、彼らの言うところの汚れの代表であるピラトを利用して、主イエスを裁いて殺させようとする。ここに彼らの狡猾さと罪が現れているように思います。
ユダヤ人たちに被告人であるイエスを押し付けられながら、彼らが中に入って来ないものですから、ピラトは官邸を出たり入ったりしなければなりませんでした。彼は外に出てユダヤ人に「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問います。彼らは「この男が悪いことをしていなかったならあなたに引渡しはしなかったでしょう」と随分横柄で強引な態度で応えています。理由は言わずにとにかくこの男は悪人なのだから、下手な口出しはせずに引き取って裁けとでも言わんかのようです。というのは、宗教的な対立であるならば、自分たちで対処しろと言われるのは明らかだったからです。
総督というのはローマ皇帝から任命されて任地に赴くのですが、彼ピラトは一年の大半を地中海のカイザリアの総督府に滞在していてよかったのですが、全世界のユダヤ人たちが大挙集まって来る過ぎ越しの祭りの間だけは、エルサレムに駐屯しなければならなかったようです。元々、民族意識の強いユダヤ人のことですから、そのようなお祭りに乗じて暴動が起こらないように見張るためでした。彼にしてみれば、厄介ごとが起こらずに平穏に祭りが終わってほしいとそう願っていたことだと思います。ところが危惧していた厄介事が起こった。ユダヤ人同士の内輪揉めなようだ。そんなこと当人たちだけで解決して欲しい。そんな思いを込めて「自分たちの律法に従って裁け」とユダヤ人たちに突っ返したのですが、「わたしたちには、死刑にする権限はない」と言われてしまった。ある意味開き直られてしまったのです。ピラトはこの厄介な主イエスの裁判を行なわねばならない羽目になってしまいました。彼は民衆が反発することを恐れたのです。
外に出ていた彼は再び中に入って主イエスと向き合うこととなりました。ヨハネ福音書ではこのピラトの裁判の場面は19章16節まで続きますが、何度も何度も出たり入ったりを繰り返すとこになります。ある人によると、この時ピラトは合計7回官邸を出たり入ったりしていると言っています。何とも落ち着かない不安定で無力は裁判官です。主イエスを殺そうとするこの世の陣営と神の独り子主イエスとの狭間に立たされ、自らの存在を賭し得ない一人の人物が今度は主イエスに向かって「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。ユダヤ人たちが恐れていたのは正にそのことでした。主イエスが自分を王とするのなら、ローマ皇帝に歯向かう者として反乱罪を適用することが出来ます。それに対しての主イエスの答えは反対にピラトに向かっての問いでした。「あなたは自分の考えでそう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」ピラトは主イエスの真意を全く理解しておらず、「ローマ総督の私が無力なお前のことを王だと思うはずがない、お前は自分の置かれている立場が分かっているのか。お前が王として率いているはずの国民がお前をわたしに引渡したのだ。お前は国民に裏切られたのだぞ」とそう言わんばかりに「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。お前は一体何をしたのか」と問い返します。
今度は主イエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と告げられます。ここで主イエスが語られた国という言葉は“バシレイア”という言葉です。王が“バシレイオス”ですから、国とは「王が支配されるところ」という意味になります。これを聞いたピラトは「それでは、やはり王なのか」と言わずにはおれませんでした。これまで露ほども王だなどと思っていなかったピラトが、主イエスの「わたしの国は」という件を聞いて「何も持たない惨めなお前がどうして王だと言えるのか」と問わずにはおれなかったのでしょう。このピラトの言葉に主イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と答えます。この答え方からは、主イエスがたとえ話をされた際の「聞く耳のある者は聞きなさい」との言葉が思い起こされます。主イエスの言葉は聞く耳がなければ聞き取ることが出来ない。言い換えれば主イエスにつながっていなければ、真理に立っていなければ、主イエスの言葉を理解することは出来ないのです。
「主イエスが王であられる」ということもよく似ています。イエスが王であられる王国がどんなものであるか分かられなければ理解することも受け入れることも決して出来ないものです。しかもこの国は「この世に属していない」と主イエスはおっしゃっています。「この世に属していない」とは、この世からではないという意味でもあります。この世に属する限り世の知識や知恵から事柄を見る限り、主イエスが王であることも、そんな国があることも理解出来ません。実際ピラトは理解出来ませんでした。彼には主イエスの「真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」という主の言葉は全く腑に落ちない言葉でした。
しかしここにこそ、主イエスがこの地上に来られたことの目的と私たちが立つべき立ち位置が示されています。それは「真理について証しをし、その真理と共にあること」です。主イエスは「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。また、ヨハネ8章31〜32節(182頁)では「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃっています。真理とは主イエスの生き方そのものであり、主イエスの言葉にとどまる、主イエスの声に聞く時に、私たちは主イエスの弟子となり、真理に属する、真理に立つ者とされていくのです。
私たちはこの世の国の国民として存在しています。ですから国民の責任として政府の言動に目を注いでいくことが求められます。しかしその際にも、私たちがより所とし、立つべき位置は、主イエスの言葉であり、主イエスの声です。そして主イエスが生きられたように、真理について証しをすることです。この世界に対して、また国家との関わりにおいてどのように証しをすることが出来るのか、どのような場面にあっても、主イエスの声に聞き従って何が出来るのかを常に求めていきたく願います。
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