「キリスト者の自由」  


 ガラテヤ5章1〜15節
 2008年2月10日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。レントに入って最初の主の日の礼拝です。巻頭言にも記しておりますように、カトリック教会では食事制限等の具体的なわざがこのレントの期間には行われますが、教会暦を最優先課題としないバプテスト教会では、そういったことが教派の教えとして行われることはありません。こういった行ないが律法になったり、また行なうことそのものが恵みを得る手段のようになってしまってはいけませんが、私はそういったことを通して、主イエスの十字架をわが事とすることが出来るならば、それも意味があると思います。食べ物のことに限らなくともよいと思います。たとえば日頃から自分が楽しみにしていること一つを絶つ、ちょっと我慢してみるといったことでもよいでしょう。要はイエス・キリストの十字架を我が物とする、イエスさまの十字架を自分自身のこととしてとらえて、イースターを迎えるための備えをすることです。

 さて本日与えられました聖書の箇所は、ガラテヤ書5章のみ言葉です。このガラテヤ5章の冒頭でパウロは声を大にして言っています。1節「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」割礼を守ること、それはすなわち律法を守って生活すること、そのことがユダヤ人たちにとっては最重要な課題でした。それを抜きにしては神からの救いは考えられなかったのです。イエスをキリストと信じたユダヤ人キリスト者たちであっても、彼らはユダヤ人ですから、当時は律法を守ること、実行することを重んじていたのが現状でした。しかしパウロははっきりと言います。6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無が問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそが大切だ」と。この言葉はユダヤ人たちには大きな衝撃を与えたことだろうと思います。主イエスがそうであったように、パウロもまた「律法からの自由」を説くのです。13節「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と力説します。本日は、タイトルにしましたように、私たちキリストを信じるキリスト者にとっての自由とはどんなものであるかをみていきたいと思います。
宗教改革者のマルティン・ルターの著作に『キリスト者の自由』という有名な本があります。その冒頭の一節です。

 「キリスト者とは何であるか、また、キリストがこれを獲得して与えて下さった自由とは、どんなものであるか。これについて聖パウロは多くのことを書いているが、われわれもこれを根底から理解できるように、私は次の二つの主題をかかげてみたい。キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって誰にも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。この二つの命題は明らかに、聖パウロがコリント人への第一の手紙9章19節に『わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。』と言っており、同じくローマ人への手紙13章8節に『互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。』と言っている通りである。ところで、愛とは、愛しているものに仕えて、それに服するものである。」

 これは一見矛盾する主題のように感じますが、しかしそうではありません。私たちは信仰においては誰にも従属してはいないのです。ただ絶対者なる神にだけ服従するものです。十戒の第一戒に「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」とある通りです。その意味で、私たちはすべてにおいて自由な君主なのです。当然のことながら律法からも自由です。しかし信仰において自由な私たちは同時に、愛においてはすべての人に仕える僕でもあります。キリストがそうであったように、人々に身を低くして仕えてゆくのです。あの善きサマリア人のたとえにあるように、「わたしにとって隣人とは誰ですか」と自分の隣人を選別しようとした律法学者ではなく、強盗に襲われて傷ついて倒れた旅人が目の前におれば助け起こしてゆく。私たちも一人の小さなキリストとなってゆくのです。

 では、私たちキリスト者にとって自由とは一体どんなことなのでしょうか。自由とは一般には束縛されていない状態を指すことと考えられています。辞書によると「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っていることやそのさま。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる」とあります。

 私たちが「キリスト者の自由」という時には、二つの次元があると思います。一つはいろんなことに囚われていることから自由になる、すなわちその囚われていることから解き放たれる、解放されることです。そしてもう一つはその解放されていることにより、何でも自由に行なうことが出来る状態です。私たちはイエス・キリストを信じること、心に受け入れることによってキリストにご支配いただくものとなりました。そのことによって、私たちは律法主義から自由とされました。それまでがんじがらめに束縛されていたすべてのものから解放されたのです。それが束縛からの自由、解放という次元です。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」とある通りです。
イエス・キリストと出会い、イエス・キリストを心に受け入れることとは、神さまのご臨在とその働きを目に見えるものとして体験することです。その体験を通して私たちはキリストの力に与り、病や罪や私たちを苦しめるもの、私たちから自分らしさを奪い取ってしまうようなものから完全に解放される、そんな自由を獲得するのです。英語で自由を表す“liberty”には解放という意味があります。

 ある人は「神さまと出会う前には、自分の力で生きなければいけないと思って辛かったけれども、神さまを信じるようになってからは自分が生きるのではなく、自分の力を超えた存在によって生かされているのだと知らされてとても楽になれた」と語っておられます。神さまは私たちを捕まえて下さり、私たちをとらわれから解放して下さいます。そこにおいて、私たちには「あらゆるものからの自由、解放」が与えられるのです。その意味においては、私たちは神以外の何者にも従属しません。

 そして同時に、私たちには神と隣人に仕える生活へと押し出されていきます。何事でも行える自由を、一体何に用いるのか、すべての束縛から解放され、解き放たれました。先ほどのパウロの言葉にもあったように、すべてのことにおいて自由なのですが、愛することにおいて隣人へと仕えていく、神によって与えられているその愛を、隣人に仕えることに用いていく、信仰によって私たちは「愛への自由」の中に、神さまは私たちを導きます。

 信仰は私たちを解放と自由の喜びへと招き入れてくれますが、それと同時に愛ある行為へと押し出してくれます。小さきもの、無力なもの、美しくないもの、悲しく惨めな人間の現実へと信仰は私たちを押し出します。
キリスト教は愛の宗教だと言われます。多くの信仰者が、神の愛、イエス・キリストの愛に押し出されて、その与えられた自由を罪の機会とはせずに、隣人愛の実践へとその自由を用いています。私たちの心を揺さぶるのは、そして人を根底から動かすのは愛です。しかし愛は決して楽なことでも、美しいとも限りません。時には人からも、誰からも評価されず、後ろ指をさされるようなしんどい事態に陥ることも多々あります。ある人が、「愛とは人々の悲しみや苦しみが錯綜する生身の現実の中に入っていくことだ」と言いました。(間)しかし決して美しいとは言えない愛の行為の中に他のどこにおいてよりも美しい笑顔が実現します。カルカッタの貧民街の中で人々に仕えるマザーテレサの笑顔は他の何よりも素晴らしく美しく輝いておりました。どんなに辛く悲しい現実の中にあっても、そこに愛がある限り、私たちは神さまの光によって輝かせていただけるのです。信仰の目にしか見えないでしょうが、そこには御子イエス・キリストの十字架の真実の愛が輝いているのです。

 キリスト者の自由とは「律法主義からの解放」であると共に「愛へと促されていく自由」なのです。その両方を私たちは心に覚えつつ、独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった父なる神の熱い愛の中でこの新しき週、特に今はレントの期間ですから、その熱い愛を思って、この週を歩んでまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの豊かな祝福がありますように。お祈りをいたします。いつものように黙想のときを少し持ちましょう。




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