皆さん、お帰りなさい。先々週からパソコンの具合が悪くなり、週報やメッセージの作成を含む多くの作業を円滑に行なうことが出来ずにいました。ワープロを使うようになってから、更にパソコンの普及に伴って、自らの手というか指を使って文章を書かなくなってしまいました。今では、私はメッセージの作成もパソコンなしには出来ないとまでは言わなくとも、非常な不便を感じるようになってしまいました。そのため、困りはてていました。私がパソコンを使っているのか、パソコンに使われているのか分からないそんな思いです。何人かの方にはいろいろご心配いただき、またご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。感謝なことに、昨日知り合いの方に直してもらったというか、元通り使える状態に戻していただきました。本当に感謝でした。ホッとしています。現代の私たちの社会というか生活は、パソコンを始めとする様々の機械や電子機器によって成り立っています。言い換えれば、それら無しには生活が成り立たないそんな状態であることを痛感させられた経験でした。
ドイツのルーテル教会にティーリケという神学者がおりました。この人は第二次世界大戦下のドイツの牧師であり説教家でした。後にハンブルク大学の学長となった人ですが、ナチスドイツの占領下にあって、自由を制限された一人でした。この人はドイツで連合軍の空襲に脅かされながら、またナチスの恐怖政治のもと、その軍事的・政治的崩壊が感じられる中で、主の祈りについて、「世界をつつむ祈り」というタイトルで11回にわたってメッセージをしました。最初の頃は、まだ町並みは損なわれてはいませんでしたが、一連のメッセージが終わる頃には、空襲のために、市内にあった教会堂は一つもなくなっていたそうです。彼の説教集が日本語で出版されており、その序文には次のような文章が記されています。
『説教者は、聴衆の顔に彼らを取り巻く過酷な運命が刻み付けられているのを見、今にもサイレンが自分たちをここから追い散らすのではないかと緊張しきっている様子を読み取った。彼らの顔には絶望の苦悩がありありと浮かび、慰めを求める飢えと渇きが刻み付けられていた。しかもそれは、激しい労働、しばしば逃れる地下の防空壕、肉体も精神をもさいなむ苦痛の連続によって、いつまでも消されないままであった。私がこの人々の顔の中に読み取ったもの、そして私自身も同じような顔をしていたあの絶望的な苦悩や飢えそして渇きは、この説教の中にも表われていることであろう。しかし、主の祈りはこれらのすべてのものを包みこんでいたであろう。もし真に主の祈りが祈られるならば、きっと世界は変えられていくであろう。主の祈りこそは、本当に世界を包む祈りである。』
その時代のドイツの教会だけでなく、時代や状況は大きく異なるでしょうが、私たちも彼らと同じように先ほど主の祈りを祈りました。そして私たちの教会も主の祈りに包まれて、主の祈りに導かれていることを思わされます。今日は、主の祈りではありませんが、テモテへの第一の手紙の2章から祈りについてご一緒に神さまに聞いていこうと思います。
今日のこのテモテ書ですが、この手紙はエフェソにいるテモテに対して宛てて使徒パウロが書いた手紙です。エフェソ教会は、パウロが苦労して伝道して建てた教会でした。多くの信者が与えられ、そこでは数々の不思議なわざも起こっていました。けれどもそこに狼がやって来ること、長老たちの中から曲がった教えを広める者たちが出現することをパウロは1章で予告しています。実際、教会はその通りの状態になったようです。そこでパウロはテモテにエフェソ教会にとどまって、その群れを牧するように命じたのです。
その狼とも言える、教会に福音とは異なる教えをもたらした者たちは律法について教えました。これは食べてはいけない、飲んではいけない、等と言い始めました。他にも、どこからそのような教えになったのか、結婚してはいけないということや、また系図使っておかしな教えを伝えていったりもしたようです。律法を教え、あたかも律法を大事にしているかのように見せて、実はイエス・キリストの福音からそれていったのです。
そのため教会は混乱し、大論争が起こりました。というよりも、そのような輩たちが論争をけしかけたと言ったほうがよいでしょう。この手紙は、こうした言い争いを避けて、教師たちの目標である「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛」に焦点をあてるように、テモテに命令しています。
そこで2章では、パウロは公の場における秩序について語っています。教会において、公の集会において、争いや無秩序ではなく、静かさを保ち、本来の目標である神の救いを見つけていかなければならないことを教えます。
1節で「そこで、まず初めに」と述べます。今も述べましたように、1章で語られた無益な論争を裂け、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことについて、「まず初めに」と続けているのです。騒々しい、そして教会の秩序を乱すような要因に対して、何がなされないといけないか、そこにおいて必要とされるのは「祈り」だとパウロは教えます。議論ではなく、祈りこそが、公の場においても優先されていくときに、敬虔に基づく静けさと平安があるのです。私たちは議論ばかりして、祈ることを忘れてしまっていることが何と多いことでしょうか。「まず、初めに」祈ること、全てのことに優先させて祈ること、これこそが肝要なのです。
ここで、パウロは「祈り」について、4種類の言葉を用いています。「願い」「祈り」「執り成し」そして「感謝」です。最初の「願い」とは、人々の必要であって、その必要を神に知ってもらうことです。もちろん、神さまは私たちの必要をすべてご存知でありますが、私たちの方からその必要を知らせることによって、私たちは神さまとの深い交わりに入ることが出来ます。フィリピ4章6節においても「どんなことでも、思い煩うのをやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」とある通りです。
次に「祈り」ですが、これは神へのデボーション、自分の霊と魂を神の前に献げる礼拝にほかなりません。それはただ主にのみ目を注ぎ、主ご自身の御顔を求める時です。三つ目の「とりなし」、ここで使われている「とりなし」とは、権威ある王に対してその王座の前に現われ近づいてひれ伏すという意味の言葉です。このようにして、私たちは神に近づくことが出来るのです。そこは審きの座ではなく、恵みの御座です。ヘブライ書4章16節には「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。そして最後に「感謝」です。神さまに私たちの願い事を知っていただき、神さまの方に私たちの顔を向け、恵みの座に近づき、ただただ神さまご自身のなさって下さったことに感謝するのです。
以上の様な「祈り」が求められていますが、これをすべての人々のために」行なうようにパウロは勧めます。自分たちの気に入っている一部の人に対してだけではなく、ましてや同じ信仰者のためだけでなく、文字通りすべての人々のために祈りなさい、というのです。これは口で言うほど簡単なことではありません。パウロはここで、自分の祈りの輪を広げ、特に公の祈りの際に閉鎖的にならずに祈りなさいと勧めているのです。
2節には「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」とあります。なぜこういった人のために祈ることが求められるのでしょうか。それは、「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。ローマの信徒への手紙13章には「上に立つ権威に従うべき」こと、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると記されています。権威を知ることによって、私たちの内には、争いや無秩序ではなく、信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送ることが出来るのです。
しかし、王や高官のために祈り続けること、これもまたそんなに簡単なことではありません。なぜなら、それらの人々のことを私たちはいつも支持できるわけではないからです。政治家であれば、それは自分が選挙で投票した人でないことも多々ありますし、支持していないというだけではなく、むしろ反感というか時には敵対する存在であることもあるからです。しかしパウロはそれでも、「王たちやすべての高官のために祈る」ことを勧めています。それぞれの立場の人の権威を尊重することによって、自分の内側に権威を尊ぶべき思いが生まれます。そうすることで、言葉の争いや感情のもつれなどから解放され、教会としてキリスト者として目的を失った状態から目を離して、神さまが求めておられる敬虔さや威厳を保つことが出来るというのです。そしてそれが、自分自身の生活をも平穏で落ち着いたものと変えられていくのです。
3節「これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」このようにして、祈ることは、「神の御前に良いことであり、神さまに喜ばれること」です。4節「神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」のです。そして5・6節のように、すべての人の贖いとしてご自身をお献げ下さったお方、そのキリスト・イエスが、神と私たちの間の仲介者となって下さったのです。私たちの肉の心や思いからは、不平不満や愚痴、悪口は起こってきても、他人のために祈ろうという心は起こってはきません。しかし、私たちのために命を献げて下さったイエスさまが私たちのために、神への執り成しをして下さったことにより、私たちは「願いと祈りと執り成しと感謝とをささげる」ことが出来るようになるのです。自分自身のことだけでなく、家族や隣人のために祈りましょう。そして「王たちやすべての高官のため」にも祈りましょう。お祈りをします。いつものように本日与えられたみ言葉と神さまの導きに思いを馳せるため、少し黙想の時を持ちましょう。
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