お早うございます。マタイによる福音書は全部で28章ありますが、先ほどお読みいただいた16章の13節からがこの福音書の後半部分に入ると言われています。そしてそれは、イエスさまの生涯の歩みの佳境に入った、もっと具体的に言うならば、今日取り上げます13節からの出来事を境に、イエスさまは十字架を明確に見定めて歩み出されたことを意味しております。
少し長いテキストで、ご覧いただけばすぐに気づかれることですが、13〜20節のペテロの信仰告白の箇所と21〜28節のイエスさまの受難予告の二つの箇所からなっています。通常は二つに分けて取り上げるのでしょうが、このように連続して読んでみることで、気づかされることがあります。それは、ここには両極端のペテロの姿があることです。前半では17節で「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と主イエスからおほめの言葉をもらっていますが、後半では一転して厳しく叱られ、23節では「サタン、引き下がれ」とサタン呼ばわりまでされて叱責されています。このように、主イエスからほめられているペテロと叱られているペテロという正反対の姿がここには記されています。なぜそんなことになったのでしょうか、ほめられたペテロがどうしてサタン呼ばわりまでされたのでしょうか、今日はそのことを考えながらこの箇所を見ていきたいと思います。
さて先ずは、前半のペテロがほめられた場面から見てまいりましょう。ここは先ほども述べましたように、イエスが誰であるかをペテロが告白したところです。この13節の最初の言葉に注目したいと思います。「イエスは、フィリポ・カイサリアに行ったとき」とあります。この話の舞台となったのはフィリポ・カイサリアという町です。これは、パレスチナ地方の北の端で、主イエスが訪れた場所としては最も北に位置する町です。主イエスは何故、この町でこのような質問を弟子にされたのでしょうか。
このフィリポ・カイサリアは、ローマ皇帝とここを治めていたフィリポという王の名から名づけられた町です。ここには、ローマ皇帝を拝む神殿を始め、数々の異教の神々の神殿がありました。主イエスは、そのような町で、「わたしを何者だと言うのか」という大事な問いをされているのです。イエスさまはあえて、そのように異教に満ち、敵も多くいそうな場所、迫害を受ける危険性さえある町で、ペテロに信仰告白を求められたのです。
ここで、主イエスはまず「人々は、人の子(これはイエスさまがご自分のことを話される時の言葉ですが)のことを何者だと言っているか」と問われて後に、15節で「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。信仰告白とは、イエス・キリストが何者であるかということは、人がどう言っているかによるのではありません。自分にとってイエス・キリストは何者であるかそのものであります。人がどう言っているかということは比較的口にし易いことです。しかし、自分はこう思うと自分の言葉でその思いや考えを言い表すことは、自らの責任を伴うことであり、主体性が問われます。信仰告白とは、主体性をかけ、自らの責任を伴って、イエスをキリストと告白することにほかなりません。皆と同じ意見や立場に自らをおくことの方が楽でしょう。その方が安心し易いかもしれない。大勢に従っておれば、仲間にしてくれるけれども、自分の信念を貫こうとすればバッシングを受けるのが世の常だからです。
ペテロは、そんな仕打ちを受ける可能性さえある町で、自分の言葉で、イエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。主イエスは、そのことをとても喜ばれた、大変高く評価されました。18節以下では「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、また天の国の鍵を与えるとまでおっしゃったことからも分かります。
ところが、そんなペテロが一転して、21節以下の後半の話では、主イエスに厳しく叱責されています。なぜ、そんなことになったのか。それは、22節にあるように、ペテロが主イエスをいさめたことによります。21節の後半の言葉は、主イエスが弟子たちに初めてご自分の歩むべき十字架の受難を予告されたものです。主イエスは先ほどのペテロのキリスト告白を受けて、自分はユダヤの権力者たちに殺されて復活することになっていると告げられましたが、それは全くペテロの理解を超えた事柄でした。彼には自分のお師匠さまが殺されるというようなことは考えられないことだったのです。それゆえ、あろうことか、主イエスをわざわざ脇に引っ張って行って「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめたのです。受難を決意し、十字架を背負おうとされる主イエスに向かって、とんでもないことといさめるペテロ、これは、主イエスには荒れ野で主イエスを誘惑したサタンと同じ姿のように思えたのでしょう。自分をいさめるペテロの姿の中に、荒れ野で自分を誘惑したサタンの姿を見られたのです。何が主イエスにそこまで思わせたのでしょうか。それは、ここでのペテロは主イエスの十字架の道筋を阻むものになったからです。23節の主イエスの「サタン、引き下がれ」の「引き下がれ」は「後ろに回れ」という意味の言葉です。ここでのペテロは、主イエスの前に出て主イエスが十字架に向かおうとすることを邪魔したのです。そしてそのわざこそがサタンの仕業であることを指摘されたのです。
ほめられたペテロと叱られたペテロを同じ箇所に続けて描いているということは、このどちらのペテロの姿も彼の実像にほかなりません。ペテロという一人の人物の中に、異教の町の中でも自らの主体性をかけて堂々とキリストを告白する人物と、そしてその一方キリストが何をなさろうとしているかを全く分かっていない人物、この二人のペテロが同居しているということです。そして聖書は、それはペテロだけのことでなく、主イエスの弟子たちすべての姿であり、更に私たち自身の姿でもあると告げているのです。私たちの中にも、二人のペテロが同居しているということです。信仰告白を堂々とするペテロだけではなく、主イエスをいさめて十字架の道行きを邪魔するペテロ、そういう全く矛盾するかのような存在、それが私たち信仰者の姿であるということです。一度は主イエスをキリストと信じる信仰告白をした、イエスさまを信じ、その後に従っていこうと決断した、だから一生大丈夫ということでは全くないのです。私たちはこの二人のペテロが同居し、また言い換えれば、二人のペテロの間を行ったり来たりする弱い存在に過ぎないのです。
主イエスには、そのような私たちの姿がよく見えていました。だからこそ、繰り返し、私たちに弟子としての心構えを教えて下さっているのです。今日の聖書の24節以下もその一つです。これは一見、大変厳しい教えであるかのように思えます。けれどもよく読みますと、決してただ厳しいばかりではない、むしろ、主イエスの私たちへの思いがにじみ出ていることに気づかされます。主イエスはここで、私たちに本当の命を得るようにと教えてくださっているのです。それは、永遠の命という滅びることのない命であります。この命は、私たちが努力して獲得するものではなく、主イエスの十字架と復活によって、無償で与えられるものであります。
21節の受難予告で、主イエスはそのことを告げようとされたのです。しかし、ペテロにはそれが分からなかった。なぜなら、彼が「神のことを思わず、人間のことを思って」いたからです。私たちが神さまのことを思わずに、人間のこと、すなわち世間のことを思っている限り、私たちには主イエスの思いが分からないし、したがって永遠の命にもあずかることが出来ません。私たちもこのペテロのように神のことよりも人間のことを思うようになると、主イエスから離れてしまうことになりかねないのです。
フィリポ・カイサリアは正に、現在の私たちの置かれている日本社会そのものです。クリスチャン人口が1%に満たない社会の中にあって「あなたはわたしを誰だというのか」と主イエスは今も私たちに問いかけておられるのです。私たちはその問いにどう答えるのでしょうか。
二人のペテロの間を揺れている私たちですが、恐れることはありません。私たちは主イエスの十字架と復活によって永遠の命にあずかっているのです。それが、聖書全体が告げる神様からのメッセージ、すなわち福音です。この後もペテロは、人々から問いただされた時に、主イエスのことを三度も知らないと否定しました。しかし、主イエスはそんなペテロをお見捨てになることはなく、復活のお姿を彼にもあらわして下さいました。
この福音にあずかっている者として、臆せずに生きていきたいと思います。主イエスの十字架を見つめつつ、イエスさまの後を従うものでありたく願います。お祈りをします。
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