ハッピーイースター。イエスさまのご復活を心から感謝いたします。復活、それは文字通り、一度死んだものが生き返ることです。イエス・キリストは十字架で死に、そして復活された。キリスト教の信仰を一言で述べるならば、そういうことになるでしょう。十字架で死なれた、これは、私たち罪びとの身代わりとなって十字架で死んで下さった、聖書は私たちにそのように説いており、古来よりキリスト教信者は、ヨセフの息子であったナザレのイエスが復活したと信じています。
先ほどご一緒に歌いました新生讃美歌243「墓の中にいと低く」、この教会で讃美するのは初めてのことだったかもしれません。ちょっと歌いづらかったですかね。これは今月の讃美歌です。今月ひと月歌ってまいりますので、だんだんと慣れていければと思います。そこには「よみよりかえり 死と悪魔に勝ちし 君こそ勝利の主なれ」とあります。イエスさまは死と悪魔と戦われて、勝たれた。イエスさまは神さまですから、悪魔が敵であったのは明らかです。『天使と悪魔』という映画もありますが、天使は神さまのみ使いのことですから、悪魔と戦われるのは神さまでありイエスさまです。しかしイエスさまが戦って勝利されたのは、悪魔にだけではありません。イエスさまが、2000年前のこの日に復活されたことは、死に勝利された、死を打ち破られたということであります。クリスチャンはそう信じているのです。
先ほど司式者にお読みいただいた聖書の言葉には、5節で神さまのみ使いである天使の言葉として「恐れることはない。十字架につけられたイエス・キリストを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない」この「ここ」とは墓のことです。墓の中にはおられない。十字架につけられて死んだ敗北者イエスをあなたがたが捜しているのなら、そんな人はここにはいない。あの方はここにはおられない、死に勝利された御方として、もはや墓の中にはおられないのだ、と天使は告げました。これが今朝、私たちにも告げられているメッセージです。
ここでは、「勝利」「勝ち負け」と、これは戦いであることが語られています。昨日は沖縄の興南高校が甲子園で悲願の初優勝を遂げましたが、スポーツの試合を例にとりながら、今日は、死との戦いについて語らせていただきます。
私たちの人生をスポーツの試合にたとえるならば、今皆さんは、自分がどういう状況におかれていると考えておられるでしょうか。勝利に向かって順調にポイントを重ねている。そのように捉えておられる方もいらっしゃるでしょう。そのまま試合が進んでいくこと、今の調子で人生が進んでいくことを願っておられることでしょう。
しかし私たちは、長い人生が順調に進むばかりでないことをよく知っています。相手にポイントを奪われる、失点する時がある。リードしていたのに、連続ポイントを取られて逆転されそうになる。何とか踏ん張ろうとしても、流れを変えることが出来ない、そのような時があります。焦りや苛立ちが生じます。まだ試合の途中なのに、もう試合を続ける意欲が失せてしまいそうになる。もう投げ出したくなって、まだ負けが決まったわけではないのに、敗北感に苛まれる。大きな挫折を経験する時、罪の誘惑に屈してしまった時、取り返しのつかない失敗をしてしまった時、等など。
そのようにポイントを重ねたり、得点を奪われたり、勝利を確信したり、敗北感に苛まれたり、そのようなことを繰り返しながら、試合は進んでまいります。皆さんにとって、今は、どのような時でしょうか。ここにおられる、3,40人の方たちの試合の状況はそれぞれに異なっていることでしょう。しかし、聖書は、私たち全員に共通すること、一つの事実を語っています。今、試合の状況がどうであれ、敵である相手には、恐るべき控え選手がいる。とても強力なメンバーが相手ベンチには控えているということです。その控え選手が「死」であります。聖書においては「最後の敵」とも呼ばれています。「死」と戦わない人はいません。死がやってこない方は、歴史上今だかつて一人もいない。誰もにやって来、皆がその相手と戦わねばなりません。この控え選手は、たいていの場合、最初からは試合に登場しない、先発メンバーには入っていないのです。しかし、試合の途中からは必ず出てくる。この死という控え選手は様々な仕方で、私たちの人生という試合に登場してくるのです。それは「予期しなかった病気」によって。また「怪我」によって。あるいは自分のことではなく、愛する身近な人との死別という形をとっても表われます。
そして私たちは無意識のうちにも感じているのです。本能的と言ってもよい、「死は恐ろしい」のです。この敵が出てくると、形勢がひっくり返ってしまうということを。実際、一回の健康診断を境に、その人の人生の歩みが全く変わってしまいかねないのです。それまで、たとえ順調にポイントを重ねて勝利に向かっているかのように見えていたとしても、「死」という名前のその敵が試合のフィールドに登場した途端、形勢が逆転してしまいます。もう自分はどんなにしたって勝てない、そのような思いにとらわれてしまいます。
そのように恐るべき敵である「死」ですが、彼は控え選手です。しかし、控え選手というのは、フィールドに出て来て初めて力を発揮するのではないということです。強力な控え選手というのは、相手ベンチにいるだけで、こちらに対して無言の力を与えるものであります。だから、控え選手が存在するだけで、試合そのものは左右しまいます。彼がいつ出てくるか、そう意識するだけで、フィールドの選手は影響を受けてしまいます。彼は、どんな形であれ、必ずやって来る。そいつが出てきたら、絶対に勝てない。そのように考えてしまうものであります。では、死を意識しなければよいのか、見ないようにすればよいのでしょうか。しかし、それでは本当の勝利にはなりません。
私たちにとって、本当に必要なことは、見ないようにする、死を意識しないように心がけることではありません。私たち人間の力では死に打ち勝つことはできないのです。だから私たちにとって最強の力となる、死よりも強力なメンバーを加えることです。味方にすることです。聖書が説くのは、そしてイエスさまが復活されたことは、私たちは恐れることはないとのメッセージなのです。本日の聖書箇所においても、5節で天使は「恐れることはない」と婦人たちに語っています。また、実際にイエスさまも10節で「恐れることはない」とおっしゃっています。
イエスさまは死に打ち勝たれたのです。十字架で一度は死なれましたが、その二日後、三日目の夜明けには死を打ち破って甦られたのです。そのイエスさまが、「恐れることはない」とおっしゃって、私たちと共に戦って下さるのです。
死が試合に出てくることで、大きくポイントを奪われて、もう駄目だと思っていたとしても、イエスさまはその不利な形勢を一発逆転する力をお持ちです。
実際に、死の恐怖に取りつかれて、生きる希望も気力も失ってしまわれた末期癌の患者さんが、イエスさまが死さえもご支配される方だと知り、そのことを信じて、病床でバプテスマを受けられた方が、それまでと一転して、希望に満ちあふれて天国へと帰っていかれた、そのような方が何人もおられます。イエスさまを信じることで、死よりも強いお方が、その人の試合に登場したら、大逆転が起こるのです。もはや敗北はありえない、最終的に、その人を支配するのは、牛耳るのは死ではなくなります。命です。それを聖書では「永遠の命」と呼んでいます。
この永遠の命とは、未来永劫、永久にこの地上で生き続けることではありません。この地上での寿命が尽きた後も、またどんな状況の中にあっても、イエスさまは絶対に見捨てず共にいて下さる命ということです。死をも乗り越えて打ち勝ったお方がいてくださるのです。そして語りかけて下さいます。「あなたは負けません」と。死がどれほど苦しめてこようとも「あなたは絶対に負けません」と。
最後に聖書の言葉を読んで終わります。お聞き下さい。ヨハネによる福音書11章25節(189ページ)
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」アーメン お祈りをします。
しばらくの時、神さまの導きに委ねて、黙想しましょう。
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