「私を裁くのは誰?」


 コリント4章1〜5節
 2010年4月11日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 みなさん、お帰りなさい。本日もご一緒にコリント信徒への手紙から聞いてまいりましょう。
本日の4章までのところ、特に3章において、この手紙の著者であるパウロは、コリント教会の人々が党派を作って互いに裁き合っていることを指摘し、そのことから解き放たれるように述べてきました。本日の4章にの1〜5節には、何度も出てくる鍵となる言葉、キーワードと呼べるものがあります。それは「裁く」という言葉です。勿論、裁きという事柄そのものを含んでいます。パウロは3節で「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と述べます。このあなたがたは、コリント教会の人のことですから、彼は自分が創設し基礎を築いたコリント教会から裁かれることを経験させられたのです。ここで彼が言わんとしているのは、あなたがたの裁きは人間の裁きであって、かの日の神の裁きではない、神の裁きを自分は恐れるけれども、人間の裁きは私にとっては少しも問題ではない、ということです。

 この手紙を書いた頃には、パウロはコリント教会からの裁きに晒されていたようです。実際、彼がコリントを去った後には、いろいろな指導者が現れ、それぞれその指導者を慕うグループが出来ました。その中には、彼の教えに批判的なグループも生まれてきて、彼らからの批判や中小を受けたようです。まあ、力のある指導者であればあるほど、その批判も強くなるのは人間の常ではあります。そういう中でパウロは「私はあなたがたに裁かれても、そういう人間による裁きはなんら問題ではない」と言っているのです。それは彼がそのような強い信念を持っていきていることの現われではあります。
 しかしここで彼が言っていることをそのことにだけ限って読んでしまうと、彼が本当に言おうとしていることから外れてしまいます。ここでパウロが念頭においているのは、自分を批判する、敵対している者のことだけではありません。コリント教会には、彼に批判的な人もおりましたが、それ以上に彼を慕い、師と仰いでいる人々も多数いました。パウロ派、アポロ派、ケファ派(これは筆頭弟子のペテロのことです)、中にはキリスト派を名乗るグループもいました。そのように党派に分かれて対立し合っていた。パウロ自身もその対立の構図の中に巻き込まれていたのです。アポロ派やケファ派の人は自分に敵対的だったが、パウロ派の人は自分のことを理解してくれている。しかし、ここで彼が自分を裁こうとしている「あなたがた」の中には、自分を慕い、自分の名のもとに党派を作っている人々のことを入れているのです。それらの人々も自分のことを裁いているのだと、そう彼は考えているのです。
 つまり、ここでは「裁く」ということの意味が問題になります。裁くというのは、批判することとイコールではありません。勿論、批判することも裁くことの一面ではありますが、ここではそれだけでなく、裁くとは、判断すること、判決を下すこと、もっと言うと白黒つけることです。そういう意味で、パウロを支持する人も、批判する人も、同じように彼を裁いています。ただ、その結論が白なのか黒なのかが違うだけです。パウロのことを白と裁いた人はパウロ派を作り、アポロに対して白と裁いた人はアポロ派を作るのです。

 パウロのことを支持するか批判するかということが問題なのではありません。支持だろうが批判だろうと、そのようにあなたがたは自分が裁こうとしている、そこに問題があるのだということです。それらはみんな人間の裁きだ。その裁きによって、結果的に党派を作り対立してしまっている。本当に裁くことの出来るお方は、神さまだけだ。だから自分が裁く者になるのではなく、かの日の神さまの裁きに委ね、それを待つ者となるべきだ。それが4節後半から5節にかけて教えていることです。「私を裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまで先走って何も裁いてはいけません。」
 神さまはそのような方として、終わりの日に私たちを裁かれるのです。それまでは、私たちは先走って人を裁くものになってはならないのです。
 そうすれば、3節でパウロが「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと少しも問題ではありません」と言っていることの意味も明らかになります。これは、自分はどんな裁き、批判を受けても気にしない、へっちゃらだと言っているのではありません。それなら、パウロが人の裁きや評価を気にするかどうかが問題であることになります。そうではなく、彼が述べたいのは、自分を本当に裁くことの出来るのは誰なのか、ということです。
 パウロ自身も全くそのようなことが気にならない人であったとは思えません。確かに、人の評価や人目をあまり気にすることなく、自分の信念に従って行動する人であっただろうとは思います。

 私たちはどうしても人の評価や裁きが気になりますし、そのことに左右され振り回されて生きているといえます。そして私たちは大なり小なりいつも、人間の裁きの中で生きており、そのことに左右され、翻弄もされます。人からどう思われているか、人に少しでもよく思われたい、よく見られたいと思いつつ生きています。それは正に、今日の聖書の言葉を借りるなら、人間の法廷での裁きです。
 私たちの中の比較的強い人、パウロはその代表選手だと言えるでしょうが、人からどう見られようと自分の思いや信念に従って生きようとします。けれども、パウロのことを自分の信念に従って生きる強い人だったと理解して、またここで彼が指摘していることがそのようになることの勧めだと理解してしまうなら、全く見当ハズレのこととなってしまいます。パウロのここ述べていることは、それだけのことでは決してありません。それが示されているのが3節の後半から4節の前半の「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」彼は人を裁かないだけでなく、自分で自分を裁くこともしないというのです。「自分で自分を裁く」というのは、つまり、自分で自分のしていることが良いか悪いかを判定する、先ほどの表現を借りるならば、自分で自分の白黒をつけるということです。その結果、「自分には何もやましいところはない」と思えれば、それはその人にとって大きな自信、支えとなるのです。私たちは、人の目、人間の裁きを気にすることから解放されたいと願う時に、このことに頼ろうとします。自分のしようとしていること、自分のあり方について確信を持っていなければならない、これは正しいことなのだとう信念がなければならない、自分で自分を顧みてやましいところがないと思いさえすれば、人が何と言おうと、どのように批判されようと、わが道を行くことが出来る。人間の裁きや人からの評価に翻弄されないためには、そのように強い信念をもてるかどうかにかかっているのだと考えるのが一般的な考えです。

 しかし、パウロはそのようには述べていない、ここでコリントの人々にそしてわたしたちに勧めているのではないのです。彼はそのように自分で自分を裁く、白黒つけることもしない、と言うのです。ということは、自分で自分のしてきたことを振り返ってやましいところがないということを頼りにすることもしないということです。
 何故彼は、自分で自分を裁くこともしないのでしょうか。それは、自分を本当に裁く方、言い換えれば、自分をきちんとさばいて下さるお方を知っているからです。自分を裁くことの出来るのは、自分自身ではない、自分の良心ですらない。だから、人の裁きだけでなく、自分自身による裁きも、何の意味もないのであり、それに左右されるべきではないのだ、ということを彼は知っているのです。人間の裁きからの自由、解放は、ここまでいかなければ自分の生き方にはなりえません。良心に照らして何もやましいことはないから、人の目、人間の裁きは気にしない、というのでは十分ではありません。なぜなら、良心の判断が必ず正しいという保証はどこにもないからです。ですから、人間の裁きを気にせず、信念に従って力強く生きるというのは、下手をすれば、人の意見を無視して、自分の思いを強情に押し通していく生き方になりかねないのです。人の裁きから本当に自由になって生きるためには、自分自身による裁きからも解放されなければならないのです。

 では何故パウロはそのように生きれたのでしょうか。彼は4節で「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」と述べます。自分で自分のことを振り返ってやましいことは何もないと思うとしても、それが神の前で義とされるのではないことを知っていたからです。神の前での義、正しさ、即ち救いは、自分で自分の正しさを確かめることによって得られるものではありません。神の義、それは神さまから一方的に恵みとして与えられるものです。それを与えて下さるのが、主イエス・キリストであり、それが示されているのが主イエス・キリストの十字架なのです。神さまの御独り子であるイエス・キリストが、自分の罪を背負って十字架にかかって死んでくださり、罪の赦しのための犠牲となって下さった。そのこと、このキリストによる救いを信じる者に、神の義が恵みとして与えられる。パウロはそのことを心から信じたのです。その神さまの裁きに自分自身の行いや歩み、あり方も全て委ねたのです。だから、彼は自分を裁くことからも解放されたのです。
 パウロは私たちに、そのことを勧めています。彼は決して人目を気にしない強い意志を持つように勧めているのではありません。自分を裁くことのお出来になる真の裁き主は神さまだけであって、その裁きをイエスさまが十字架で受けて下さったことで、あなたは救われている。そのことをただ信じなさい、と言っているのです。お祈りをします。



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