「愚か者として生きる」


 Tコリント4章6〜13節
 2010年4月18日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 みなさん、お帰りなさい。本日の説教題、いささか奇を衒ったものだと思われたかもしれません。私は少しでもインパクトのあるタイトルをと思っていますから、そういう意図がないわけではありません。しかしただ目立てばよいと思ってのことではありません。本日のこの箇所でパウロの語っているのは、まさに「愚か者としていきる」ということだからです。

 10節には「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが」とあるように、キリストのために愚か者となっている、それが信仰者の姿なのだ、と彼は語っています。信仰とは、イエス・キリストを信じることとは、キリストのために愚か者となることです。しかし、そのように思っていない人がいた、特にコリント教会の人々はそう思っていなかったようです。

 10節「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。」コリント教会のあなたたちは、愚か者ではなく賢い者となっている、とそのことを指摘しているのです。そしてそれは信仰的に間違っているのだというのです。

 それは先ず7節の後半に記されています。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」あなたがたは高ぶりに陥っている。それは、いただいたものをいただかなかったような顔をしていることだ、と言うのです。ここの「いただく」というのは、人から何かをもらうということではなく、神さまからいただくことです。信仰もその信仰によってイエス・キリストの救いに与り、神さまの恵みの下に生きる生活も、すべて神さまが恵みとして与えて下さったものです。ところが、それを与えられなかったように、つまり自分が元々持っている、また自分の力で獲得したものであるかのように生きている、パウロはそれを高ぶりだと指摘します。

 8節では更に「あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」つまり、コリント教会の人々は、信仰者になったことで、自分たちが豊になったり偉くなったようにおもっているのです。それは物質的な意味ではありません。信仰によって精神的に豊かになり、人間として賢い者となったということです。そしてそういう自分に満足し、誇っている、それをパウロは高ぶる者の姿だと論じています。

 私たちも、信仰をもって生きるというのは、ある清さ、正しさ、立派さ、優れた知恵を身に着けて生きることだ、あるいはそれを目指していくことだと思っていないでしょうか。パウロはここで信仰者が豊かな者、王のようになってはならないとだけ言っているのではありません。8節の後半では「いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから」と言われています。このところは解釈の難しいところで、捉え方は様々なのですが、要するに彼らが本当に王様になっていたらよかったのに、パウロは思っていたのだと思います。実際は王になってはいないのに、既になったかのように思い込んでいるところに高ぶりがあるのですが、しかしそれは、王様になろうと考えること自体が間違っているのではありません。私たち信仰者には、王様のように力ある者、本当に豊かなものとなる希望が与えられているのです。それは、イエス・キリストの王としてのご支配が完成し確立する時に、私たちもその栄光のご支配に与る者とされるのです。どういうことか、それは、この世の終わり、イエスさまがもう一度この地上に来て下さったときには、主イエスさまのご支配は完成し、その恵み与ることで、豊かな王となることが約束されているのです。ですから「彼らが本当に王様になっていたらよかったのに」とは、イエスさまがもう一度戻って来られて、この世の終わりの時が来ていたらよかったのにということです。そうなら、「わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはず」なのです。世の終わりの時、再臨のイエスさまが来られた時には、信仰者は皆、キリストの栄光とご支配に与れるからです。しかしそれは、終末までは実現しないことです。ところが、コリントの人々はそれがもう実現してしまっているかのように、まだ再臨の時は来ていないのに、満足し自分たちは豊かな者、賢い者となったと思っている。世の終わりの救いの完成を先取りしたつもりになってしまっているというのです。そしてそこに、彼らの勘違いと高ぶりがあるというのです。

 8節ではパウロは、コリントの人々が「私たちを抜きにして勝手に王になっている」と言っています。ただ、このように訳すと「私たちを差し置いて自分たちだけ王になるなんてずるい」と文句を言っているようにもとれてしまいます。実際の原文には「勝手に」という言葉はありません。「私たちを抜きにして」というのも、原文では単純に「私たちなしで」という言葉があるだけです。「あなたたちは私たちなしで王になっている」と言っているのです。そこには、「ずるいぞ」という気持ちではなく、私たちはあなたたちのように王になっていはいない、ということです。つまり、ここでは、王になっていると思っているコリント教会の人々と、自分たちパウロを始めとする者たちとを対比させているのです。あなたたちコリント教会の人たちは、キリストを信ずることで、豊かな力ある賢い者になったように思い、王様になって満足している。しかし、そのあなたがたに福音を宣べ伝えた私たちはそうはなっていない。それどころか9節にあるように「考えてみると、神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となっ」でいるというのです。

 このどちらが、キリストに従う者のあり方であるのか、それは明らかです。私たちも、教会に来て、神さまをイエスさまを信じることで、もっと立派に生きる者とされたい、そのように願うものです。教会に集うようになった、皆さんそれぞれの願いや動機はさまざまでしょう。しかし、そんな中でバプテスマを受けてクリスチャンになろうとした思いの中には、もっと世の中で立派に生きたい、また本当の意味で賢い者となりたい、そんな思いがあったことだろうと思いますし、それが間違っている、また洗礼を受けるのに不純な動機だと言わんとしているのではありません。しかしクリスチャンとして、キリストに従う者として歩んでいこうとするならば、この世において王となり、それは人を支配しようとする思いでもありますが、また、この世の中で世渡り上手に生きれるための自分の知恵を得る者とはならないことが示されます。

 ちょっと乱暴な言い方に思われるかもしれませんが、主イエス・キリストは、私たちの人生のアクセサリーとして、私たちをより美しく知恵をつけ、力と富を増し加えるためにこの世に来られたのではありません。そのようなことのためなら、十字架にかかって死ぬ必要はなかったのです。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのは、自分の知恵や力ではとうてい正しく生きることのできない弱い者の罪を背負って、私たちに代わって死んで下さることによって私たちを赦して下さるためです。この主イエス・キリストにつながることによって私たちは、自分の知恵や力によって生きる賢い者であろうとする高ぶりから解放されて、キリストによって支えられて生きる愚か者となることが出来るのです。信仰者として歩むこと、それはキリストにあって愚か者として生きることだからです。

 キリストのために愚か者となったパウロたちは、実際9節以降に記されているように「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もない」中で苦労して自分の手で稼いで生きました。そしてその中で「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返したのです。そのようにして、主イエス・キリストに従い仕えていきました。しかしこれは全て、主イエス・キリストが私たちのためにして下さったことです。主イエス・キリストは「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返され、十字架の死への道を歩んで下さったのです。主イエスがこのようにして下さったことによって、私たちは救いに与り、神の子とされたのです。この主イエスとつながって歩む時に、私たちも「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返す者」とされていくのです。それは自分の知恵をつけて賢い者となろうとする者の生き方ではありません。キリストのために愚か者として生きる、極端に言えばキリストの腰巾着のさえなるところにこそ、このような新しい生き方が生まれるのです。キリストにつながって生きる愚か者は、自分の知恵や力によって生きている賢い者が決して歩むことが出来ない道を、主イエス・キリストと共に喜びと希望をもって歩んでいくのです。アーメン。お祈りをします。



2010年説教ページに戻るトップページに戻る