「あなたには欠けているものがある」


 マルコ10章17〜27節
 2010年4月25日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  今日のタイトルをお聞きになって皆さんはどのようにお感じになられるでしょうか。中には、少々失礼だと思われた方もおられるかもしれません。人から「あなたには欠けている点がある」などど言われるのは気持ちの良いことではないでしょうし、そんなことを人に向かっていうお前はどうなのか、と思われるかもしれません。ただこれは、イエスさまがおっしゃった言葉だということを押さえておいて下さい。では、イエスさまはこの男の人に何が欠けているとおっしゃったのでしょうか。今日はそのことを、聖書の言葉からご一緒に見てまいりましょう。
 
「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
 
皆さんは、永遠の命ときけばどんな印象を持つでしょうか。「永遠の」と言うのですから、命がいつまでも永遠に続くことでしょうか。それは言い換えれば「不老不死」のことになります。誰でも長生きしたいとは思うでしょうが、「不老不死」、永遠に生き続けることは望まれないでしょう。そもそも、人間が不老不死になったら、大変なことになります。生まれてくる人はいても、死ぬ人はいない。そうすると、人口はどんどん増え続けることになり、食料は瞬く間に底をついてしまいますから、すぐに破局が訪れます。おかしな言い方になりますが、人間や他の動物も含んで皆、死ぬモノであるから、こうして生きておれるのだと言えます。

 では、永遠の命とはどういうものであるのか。肉体はいつか死ぬけれども、魂は永遠に残り、天国というか極楽というか、そういう素晴らしい所で永遠に幸せに暮らせるということでしょうか。貧しく、衛生状態も悪かった時代には、そういう死後の幸福を願い、求めていく人もおおかったでしょうが、平均寿命が80歳を超えた現代日本においては、そういう思いを真剣に求める人が大多数だとは言えないように思います。

 そんな時代においては、私たちの願いは、死後の命よりも現在のこの命、この世での人生のことで満たされている。死ぬまでどう生きるかということの方にあるのではないでしょうか。つまり私たちは、死んだ後の永遠の命より、今のこの人生の幸福や平安を求めています。今日の「あなたには欠けているものがある」というのは、「永遠の命を受け継ぐ」ために欠けているものがあることを、イエスさまはおっしゃっているのです。

 この男は「何をすればよいか」と尋ねました。永遠の命と言われてもピンと来ないし、それを求めようとも思わないかもしれませんが、「何をすればよいか」ということは、私たちがいつも考えていることではないかと思います。「何をして、どのように生きたらよいのか。死んだ後のことはあまり考えない私たちも、今のこの生涯をより良いものにしたい、より充実した、幸せな意味あるものにしたいということは考えるものであります。そのためにどうしたらよいか、ということは、私たちの大きな問題なのです。つまり、人生を価値ある有意義で充実したものとするためには、何かよいことをする必要があると誰もが思うからです。ここにお集まりの皆さんも、生きていく上にどうすればよいかを知りたい、何かヒントになることが欲しいと願って、せっかくの日曜日に遊びにも行かずにここに来られた、という方も多いのではないでしょうか。

 イエスさまは「何故、わたしを『善い』と言うのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」とお答えになりました。そして19節で「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と続けておられます。これは、旧約聖書に語られている神さまの掟で、律法と呼ばれているものです。本日の週報の巻頭言にも書きましたが、自分たちを神によって選ばれた民だと考えていたイスラエルの民にとっては、自分たちが救われるための教えが律法でありました。今日のこの19節の教えは“十戒”と呼ばれる10の掟の後半のものでで、人間関係における戒めで語られていることです。すなわち、イエスさまはこれらの教えを守るようにと言われたのでしょうか。男は答えます、20節。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。イスラエルの民にとって、「律法」を守ることは普通に行なわれていることだったでしょう。21節「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたには』欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。十戒にはこのような教えはありませんが、イエスさまはこの男の人にとって欠けているもの、それが富であり、彼の持っている財産にあることを見てとられたのです。22節「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産をもっていたからである。」この男の人はお金持ちであったようです。しかしお金持ちでなくともこのように、全財産や持ち物のすべてを売り払うことを命じられたら、立ち去るしかないのではないでしょうか。もし、キリスト教での救いの条件がこれであるなら、またこの教会の入会条件がこうならば、誰が残れるのか。今日のこの中には初めてこの教会に来られた方もおられることだと思いますが、ここのメンバーの人はみんなそうなのだ、だったら私には・・・とお考えになるかもしれません。しかしそのようにお考えにならなくとも構いません。なぜか。それはここで、イエスさまは「持ち物を売り払って貧しい人に施しなさい」という掟を守ることを要求されてはいないからです。実際、この場面に居たイエスさまの弟子たちも驚いたようです。26節で「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合っています。25節には「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という有名な言葉が出てきていますが、人間の体よりも大きならくだが針の穴を通ることなど出来っこないのですから、イエスさまが一体どんな思いでこのことをおっしゃったのか、これはイエスさまのジョークなのではないかとか、実際に針の穴と呼ばれる小さめの門がありそこをらくだが通ることはできなはかった、などなど様々な解釈がありますが、私は言葉通り、自分の持ち物に執着の強い金持ちが神の国に入ることの困難さを述べられただと読んでいます。弟子ならずとも「じゃあ、一体誰が救われるのか」と思うものであります。

 イエスさまがここで彼に伝えようとされたのは、神の国を受け継ぐ、神の国に入るのは、律法を実行することによるのではない、自分の行いや力によるのではない、そのことに気づかせるためでした。イエスさまがここで伝えようとされているのは、「持ち物を売り払って貧しい人に施す」という行為を要求されたのではなく、自分の行ないに頼ろうとしていた彼の心のありようでした。神の国は、人間業によって手に入るものでは決してないのです。

 「それでは、一体誰が救われるのか」とあっけにとられていたであろう弟子たちに向かってイエスさまがおっしゃった言葉にこそ、イエスさまの真意が表われています。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」神には何でもできる、この場面での金持ちの男に欠けていたこと、それは持ち物を売り払って貧しい人に施す、気前の良さでも、思い切りの良さでもありません。彼に欠けていたこそ、それこそは、このイエスさまの言葉を信じる信仰です。人間には出来ずとも、神には何でも出来る、そのことを信じ神に全てを委ねて歩む信仰にほかなりません。私たちに求められているのも、この信仰です。お祈りします。いつものように、黙想の時を持ちましょう。


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