「完全なる生き方」


 マタイ5章43〜48節
 2010年5月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。「完全なる生き方」、なかなか大風呂敷を敷いたようなタイトルですが、45節のイエスさまのあなたがたも完全な者となりなさい」から取らせていただきました。「完全な者になれ」などといわれても、私たちは端っから「そんなこと出来るわけない」と時には反発さえ感じてしまうかもしれません。では、イエスさまはどのような思いで、この命令をされたのか、「完全なる生き方」とはどのような生き方なのかを、聖書から聞いてまいりましょう。

 ある新興宗教の入門書には、キリスト教に対しての批判をするのに、このイエスさまの命令のことが引き合いに出されています。そこには、「キリスト教の愛は「愛さなければならない」という一つの規範とされ、愛は努力すべきものと捉えられているが、それは観念論に過ぎず、実行不可能なことを要求しているだけだ。愛を説くキリスト教の国において戦争が絶えないという事実に、このことの矛盾が表われている。」とあります

 うーん、確かに半分当たっているように思えます。もしこの教えをイエスさまが「愛さなければならない」という掟として命じたものだとしたなら、実行不可能な無理難題を押し付けていることにもなるでしょう。 今日のこのイエスさまの教えは、5章の1節からに始まる山上の説教と呼ばれているものの中の一つのものですが、21節以下には、イエスさまが、旧約聖書の律法の教えを引き、「あなたがたも聞いているとおり、これこと命じられている。しかし、わたしは言っておく」と言って、ご自分の教えを伝えられたもの6つあります。見出しで述べるならば、1つ目は21節からの「腹を立ててはならない」に始まり、27節からの「姦淫してはならない」そして今日の43節からの「敵を愛しなさい」がその6つの最後のしめくくりです。ここで取り上げられている律法の教えは「隣人を愛し、敵を憎め」というものです。ですが、このままの教えが旧約聖書に記されているのではありません。これに当たると思われるのは、レビ記19章18節です(192頁)。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というものです。しかしすぐに気づくことですが、このレビ記には「敵を憎め」という教えはありません。「敵を憎め」は、おそらくレビ記の教えをもとにして、ユダヤ人の間で生まれ、口伝えで伝えられたものなのでしょう。「隣人を愛せ」にどうして「敵を憎め」が加えられたのかは、興味深いことです。愛することと憎むことは正反対の教えです。しかしこの二つは、私たちの実生活の中では、しばしば表裏一体の関係にあります。すなわち「隣人を愛せよ」という教えにおける「隣人」を自分の仲間、同胞、味方と限定するならば、それ以外の仲間でない、同胞でない外国人、考え方の違う人は敵であり、そこでは隣人を愛せよとは、隣人だけを愛せよということになり、必然的に敵を憎め、ということになるからです。そうすると、隣人を愛せに敵を憎めを付け加えてしまうのは、ユダヤ人だけのことではないと言えるでしょう。私たちは皆、誰が自分の隣人であるかの範囲を限定して「隣人は愛するが敵は憎む」という生き方をしてしまうものです。イエスさまはそのような私たちに対して「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と命じられたのです。それは敵、すなわち自分を迫害する者のことさえ愛さなければ、隣人を本当に愛することは出来ないのだ、と言わんとされたのでしょう。

 私たちにとって隣人とは誰であるかを教えられたものには有名なルカ福音書の“良きサマリア人”のたとえがあります。強盗に襲われて倒れている人を、祭司やレビ人といった宗教的指導者たちが見て見ぬふりをしたのに対して、その人を介抱し宿の世話までしたのが、当時ユダヤ人と敵対関係にあり迫害さえされていたサマリア人だった、というたとえを通して、イエスさまは、「わたしの隣人とは誰だろう」と考えている間は、隣人を愛することは出来ないことを教えて下さっています。「誰だろう」と考えるのは、隣人の範囲を定め、その中でだけ人を愛そうとすることになり、そこからは隣人ではない敵を憎むという生き方が生まれるだけです。隣人とは誰だろうと探すものではなくて、目の前にいる人の隣人になるかどうかだと、イエスさまは言われるのです。目の前の、自分を迫害して者の隣人になる、それこそが、隣人を自分自身のように愛することなのです。そうでなければ、私たちは結局、「敵を憎め」という世界から抜け出すことは出来ないのです。

 45節には「あなたがたの天の父の子となるため」とあります。そして続けて、天の父がどのような方であるかが記されています。天の父は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方、人を分け隔てなさらない方だとイエスさまはおっしゃいます。神さまは、善人、正しい者は味方として愛し、悪人、正しくない者は敵として憎まれる方ではないのです。悪人、悪い者に対しても、愛し、恵みを与えて下さる方なのです。

 そしてそのことは、これを読む私たちに、究極の御方である神さまから見て、自分は一体悪人なのか善人なのかを迫ります。そんな神さまから愛され、赦され、恵みをいただき、こうして生かされている者に向かって、神さまはだから、その天の父なる神さまの子どもであるあなたがたも、自分の敵を愛しなさいと言われるのです。

 これは一見すると、神さまって不公平な方ではないかという思いにもなります。正しいものを助け、悪者をやっつけるのが神さまではないかという意識を我々は持っているからです。しかし、ここでおっしゃっている天の父はそうではないというのです。

 私たちは、「神さまは悪人をも愛してくださる」ということが納得できるでしょうか。また受け入れているでしょうか。神さまが分け隔てなさらない御方であるなら、わざわざ無理してしんどい思いをして、善人にならなくてもよいのではないか。神様がよい者も悪い者も愛されるのだとしたら、むしろ悪い者のままの方が楽だし、得ではないかと考えてしまいます。しかしそう思うなら、決して「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という教えを受け入れることができません。いや、ある意味ではそれを受け入れるのかもしれません。それは「敵をすらも愛し、迫害する者のためにすら祈れるほどの善い人間になろう」という思いにおいてです。しかしそれは、よい人間にならなければ神さまに愛されないという思いの裏返しに過ぎず、それはここでイエスさまがおっしゃっていることとは全く異なります。自分が善い人間になるために敵を愛そうとすることは、そういう努力をすることで自分を神さまの味方、仲間に加えてもらおうとしていることに他なりません。そうであるならば、私たちは、神さまが悪人をも愛される御方であるということを受け入れていません。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」という御言葉は、「神さまは私たちに太陽を昇らせ、雨を降らせて養って下さるばかりではなく、悪人、正しくない者にもそうして下さっている。だから私たちも、自分を迫害する敵にも親切にしてやるべきなのだ」ということなのでしょうか。  (間)

 私たちは正しい者なのでしょうか。神さまの前で、正しく行なえている者なのでしょうか。そして、そうであるならば、今日の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という御言葉に、素直に従えるはずです。私たちはそうではないのです。この御言葉にたじろいだり、そんなことは出来っこない、と言って開き直るしか出来ないものなのではないでしょうか。私たちこそは悪人であり、正しくない者なのです。しかし、天の父なる神さまは、イエスさまを十字架につけてまで、正しくない罪びとに過ぎない私たちのことを敵として憎むのでなく愛して、私たちの隣り人となって下さったのです。

 主イエス・キリストは48節で「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」といわれました。
(間)

 もう十分、最初の敵を愛せという御言葉でノックアウトされているのですが、この御言葉、命令に至ってはお手上げするしかありません。そして「そんなこと出来っこない」と開き直るしかありません。しかしそれは、ここでの完全ということの意味を、私たちが自分の思いによって勝手決めてしまうからです。先ず見つめなければならないのは、天の父なる神さまの完全さです。正しくなく悪人である罪びとである私たちを愛し、その独り子の命を与えて下さり、敵であった私たちをご自分の子どもとしてくださる神さまの愛、それこそが神さまの完全性であります。完全無欠な、灯の打ちどころのない、というような堅苦しい話しではありません。罪びとであり、神さまに敵対する者である私たちのことを徹底的に愛して下さる、その愛の完全さです。そして、神さまは私たちを神さまの子どもとして下さることを通して、私たちにもその完全さを受け継がせて下さるのです。

 5章20節でイエスさまは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることが出来ない」とおっしゃいました。その「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさ」る義が、21節以下で語られているイエスさまの教えです。そしてその中心こそが、本日の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」ということです。私たちには出来ませんという応えしか出てきません。しかし、イエスさまはそんなことは百も千もご承知です。それをご承知の上で命じられます。それは、先週も申し上げましたように、らくだが針の穴を通るようなものです。「それでは誰が救われるのですか」と弟子は問いましたが、その時のイエスさまのお答え、それこそが、私たちがよりどころとする言葉です。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」この御言葉を信じ、より所として歩んでいきましょう。そしてそれこそが、私たちにとっての「完全なる生き方」なのです。お祈りをします。


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