「十字架の主イエスに倣って」


 マタイ7章12節
 2010年5月16日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。今日の聖書の御言葉はよく黄金律といわれます。全ての人にあてはまる全人類が従うべき法則とでも言えばよいでしょうか。それが今日の「人にしてもらいたいと思うことを人にせよ」というものです。これはクリスチャンの方でなくとも「そうだ」と思うことであり、納得されるでしょう。そういう点からも普遍的な価値を持つ教えということで黄金律と呼ばれるのです。
これとよく似たものとして思い浮かぶものに、「人様に迷惑をかけてはいけない」や「人のいやがることをしないように」があります。日本ではどちらかと言うと、「迷惑をかけるな」「するな」というように教えられてきたのではないでしょうか。このような教えは論語にもあるそうです。「あなた自身が願わぬことを、他人におこなってはならぬ」です。これらはある意味で世の中の原則となる道徳になりうるものでしょう。

 しかしこういった「するな」という教えと、イエスさまの「人にしてもらいたいことをせよ」とではやはり違いがあるように思えます。前者は、「するな」という否定的、消極的な教えなのに対して、イエスさまのは「これこれをしなさい」というように肯定的、積極的な点です。これが一つの大きなイエスさまの教えとしての特徴であろうと思います。

 けれども、事はそんなに簡単ではないとも言えます。前向きに、積極的に良いことをしようとして生きるのは、悪いことをしないで生きるよりも優れたことであり、人々の幸せにつながるとは思いますが、実際には必ずしもそうではないこともあります。良いことをしよう、親切にしようという善意からしたことが、その相手に望まないこととなったり、時には迷惑となってしまうというようなことがあるからです。本人は親切のつもりでも、ピントがずれていたり、詳しい事情が分からないことで、かえって有難迷惑になってしまう場合です。独りよがりになり、これが良いことだと思い込み、自分の思いを人に押し付けてしまうのです。本人は良かれと思ってやっているのですから、なかなかその問題性、何が良くなかったのかに気づきません。だからでしょうか。何もしなくてよいから、悪いこと、迷惑をかけることをしないようにと考えるようになるのです。つまり、あの消極的で後ろ向きとも思われる教えの方が、かえって現実に即した有効な教えなのかもしれないのです。良いことをするよりも、先ず「悪いことをしない、迷惑をかけない」事の方が、先決となるのでしょうか。

 しかし、今日は、どちらが良いのか、どっちの教えが生き方が現実に即しているのかをさぐるのが目的なのではありません。良いことをして生きるのと、悪いことをしないで生きるのと、どっちがより道徳的かということが問題なのではないのです。だから、イエスさまがこのように教えられたのは、より前向き積極的な言い方になっているからではないし、単なる道徳訓を語られたのではないからです。このイエスさまの教えは、決して抽象的に、人に親切にしなさい、と教えられたのではないのです。むしろこれは、私たちが生きていく中で、苦しみ嘆きの中にある時に、どのように生きるか、何に心を向けていくのかという教えなのです。

 これは、自分がしてもらいたいこと、助けて欲しいこと、手を差し伸べて欲しいと思っていることを人からしてもらったのなら、自分も同じことをその相手の人にしてあげなさいと言っておられるのでしょうか。そうではありません。人がそれをしてくれたなら、というようなことはどこにも記されていません。言われているのは、ただ自分がして欲しいと思ったら、そのことを何でもしなさい、ということです。他人がしてくれるかくれないかは関係ないのです。いや、むしろ、人が自分の願うこと、して欲しいことをしてくれない、助けてもくれない、そういう現実の中で、それなら自分も人に何もするものか、人を助けたりもするものか、自分のことだけ考えていきていくんだ、というふうにならないで、そこでなお、自分がして欲しいと思うことを、人に行なっていく、人からはしてもらえなかった助け、慰め、励ましを他人には与えていく、そういうことをイエスさまは私たちに求めておられるのです。

 苦しみ嘆きの中で、人からして欲しいと思うことを、たとえ人がそれを与えてくれなくても、人に行なっていく、これは全く常識的ではない、驚くべき教えだと言えます。先々週も私たちは、イエスさまが「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられたことを見ましたが、今日の12節のこの教えもそれと通じていることに気づかされます。苦しみの中で、人からして欲しいと思うことを人がしてもらえない時、私たちはどう思うか、その人を恨む心が起こってきます。今の苦しみは、その人のせいだとも思い始めます。その人が正に自分の敵となるのです。しかしその敵に対して憎しみや恨みに生きるのでなく、むしろ愛し、敵のためにも、求めているものを与えてくれないその者のためにも祈ることが求められます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人に」行なう、そのためには「敵を愛し、迫害する者のために祈る」心が必要です。イエスさまは、そのことをここで教えられているのです。

 今日の12節は「だから」という言葉で始まっています。これは、この12節の教えが、ここまでの山上の説教の全体をまとめるものであることを示しています。そして、12節の終わりには「これこそ律法と預言者である」ともおっしゃっています。「律法と預言者」とは、今日は詳しく説明することは省きますが、旧約聖書ということです。この教えに旧約聖書の全体がかかっている、集約されているというのです。ですから、今日の教えが単に「人に親切にしなさい」ということや、「人に迷惑をかけないように」というごく常識的な教えなはずがありません。ここには、私たちの常識では推し量ることの出来ない、私たちの理解を超える驚くべきイエスさまの教えが込められているのです。

 先ほども述べましたように、これは私たちにとっての守るべき道徳訓の一つでは全くありません。苦しみ嘆く中で、人からして欲しいと願うことを、たとえそれを与えてもらえなくても、人に行なっていく、これはもはや私たちの努力目標にはなりえません。私たちの努力で到達できる範囲をはるかに超えたものであるとしか言えません。

 では、何故イエスさまはこの教えを語られたのか、何を目的として教えられたのか、それは私たちが、この教えを語られた方との交わりに生きるためです。そのことを通して、天の父なる神さまの元で生きるためです。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」この教えは5章44節で語られていますが、その直後の45節でイエスさまは「あなたがたの天の父の子となるためである」とおっしゃいました。そのような聖人君子になれと言うのでなく、天の父なる神さまの子となるようにというのです。天の父なる神さまが、私たちをご自分の子どもとして愛して下さり、養い育て導いて下さる。その父の愛と守りの中で、天の父なる神の子として生きていくところに、敵への憎しみ、自分を迫害する者への復讐の思いから解放され、敵をも愛する生き方が与えられていきます。

 なぜか、このお言葉を語られた方、主イエス・キリストが正に、そのように生き、その敵への愛、人からしてもらいたいと思うことを、たとえその相手から与えられずとも生きて、その願うものをお与えになった方だからです。
 イエスさまはこの地上に来られ、徹底的に人に仕え、人を愛し生き抜かれました。しかし、その最終的に行き着いたのは、十字架の死でした。今日はいつもの詩編交読を離れ、新生讃美歌の「交読文」を交読しました。それは旧約聖書のイザヤ書の苦難の僕の箇所です。

 「この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」

 これが十字架の主イエスです。そして最後に十字架で発せられた言葉がルカ23章34節(188ページ)の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉でした。そのイエスさまが、わたしたちに命じておられるのが今日の教えです。私たちは、その十字架のイエスに倣って、と言っても、こんな生き方は出来ないとしか言いようがないのですが、私たちが天の父なる神さまの子どもとして生きるようにと、愛を与えて下さった。その愛を感謝して受け、その愛に倣って生きる者でありたいと願います。お祈りをします。



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