「赦して赦される」


 マタイ6章12〜15節
 2010年5月23日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。本日の聖書の言葉はマタイによる福音書6章の12〜15節です。ここに記されているテーマ、それは赦しです。“ゆるし”は日本語では二種類あります。一つは「許可を与える」の意味での“許し”、そしてもう一つが“罪や過失などを帳消しにすること”の“赦し”です。今日、取り上げるのは、当然後者の方の“赦し”です。

 今日の箇所は、先ほども皆さんで祈りました“主の祈り”、イエスさまが「こう祈りなさい」と言われて教えられた祈りの中の文言です。実際の主の祈りの中では「罪」となっていますが、今日の聖書の言葉では「負い目」となっています。負い目とは借金のことです。以前の口語訳聖書では「負債」となっていました。「私たちの負債、借金をお赦し下さい」、これは単に借金の棒引きを願っているのではありません。罪の赦しを願う祈りです。というのも、イエスさまは、罪とは、借金、負債のようなものだと理解されて、このようにおっしゃっているのです。

 なぜそのようにおっしゃったのか。それは、借金は返さなければならないものだからでしょう。借金しっぱなしというわけにはいかない、必ず返さなければならない。返してしまうまで、負債は残ります。そのように罪も同じことが言える、すなわち罪に対してはその償いが求められるからです。たとえば法に触れる犯罪を犯したなら、それに応じた刑罰を受けねばなりません。罰金を払ったり、投獄されたりすることで償なう必要があります。そうして初めて、罪は帳消しになるのです。これは何も刑罰の問題だけではありません。隣人との関わりの中で、人に何か罪を犯したり、人から何かされた場合、それによってその関係は壊れてしまったり、そこまで行かずとも亀裂が生じることがあります。その修復のためには、やはり犯した罪の償いが必要です。この場合の償いとっても、ただ何かお詫びの品を渡すことだけでは済みません。先ず犯した罪を心から反省して相手に詫びることです。そして与えた傷や損害を癒すための努力を精一杯行なう。そうして初めて和解の道が開け、元の関係に修復出来る。これは、口で言うほど簡単なことではありません。「俺も悪いかもしれないが、俺にも言い分はあるし、向こうにも非はある」と思ってしまう。しかし、そんな風な思いがあれば、本当に詫びることも償いをすることも出来ません。また逆に、人から何かをされた場合には、全面的に相手が悪いと思い、絶対に赦せないと思うものです。

 私たちはそのように、互いに思いながら生きているものであります。お互いに罪の負債を数え合いながら、アイツにはいくら貸しがある、コイツにはこれだけの借りがある、アイツとは貸し借りはトントンだなどと思い、人から受けた罪にはカッカしながら、そういうストレスを抱えながら生きているものです。そんな私たちにイエスさまは主の祈りを教えられました。

 主の祈りは大きく二つに分けることが出来ます。その前半は神さまに関する祈り、そして後半が人に関する祈りです。後半の最初に教えられた祈りは、11節の毎日の糧、食べ物を求める祈りでした。生きていくのには糧が必要です。それが私たちに関して先ず第一に祈るべきものだとイエスさまはおっしゃったのです。そしてそれに続いてのものが、今日の罪の赦しでした。命の糧に続いて、第二に祈りもとめなければならないのは、罪の赦しだということです。罪を赦していただくことが、日々の生活を支えるパンの次にあるいはそれと並んで、私たちにとって欠くことの出来ないものだとイエスさまは教えておられます。そして私たちはその赦しを人に対してではなく、神さまに対して求めることをこの祈りは教えてくれています。

 神様こそが私たちの罪を本当に赦して下さるお方です。だから神様にこそ、罪の赦しを祈り求めなければならないのです。しかし私たちにはこのことがなかなかわかりません。自分は人に対して罪を犯している、申し訳ないことをしているのは分かる、だから人に赦してもらわなければならないと思うし、人を赦せたらどんなに楽になるかとも少しは思う。でも自分の方にもいろいろ言い分があって、一方的に自分が悪いわけではない、だから自分だけが赦すというのではどうも割が合わない、相手も自分に赦しを求めるべきではないか、いやむしろそっちの方が先だ、相手があやまるなら自分もあやまってもよい、自分から先にあやまるのはいやだ、自分も相手に対して罪を犯していることは確かだが…私たちはそういう堂々巡りの中で生きているのです。それは泥沼にはまり込んでいるとも言えます。イエスさまはそのような私たちを救い出そうとしてこの祈りを教えて下さったのです。お互いに負い目を数えあっているのでなく、神さまに罪の赦しを祈りなさい、そこにこそ、この堂々巡りの泥沼から抜け出す道があるというのです。隣人との間の互いの罪を犯し合っている泥沼のような関係から目を離して、そんなことをさっぱりと忘れてしまって楽になるようにということではないのです。むしろ罪の赦しを神さまに求めることにおいて、新たな隣人との関係を築き上げることになる。その新たな関係に生きる者となるようにとイエスさまはおっしゃっているのです。

 しかし、私たちは主の祈りを祈る時に、今日のこの部分に抵抗を覚えるのも事実ではないでしょうか。「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。自分の罪を赦してください、ということには気持ちをいれることは出来る。しかし、「自分に負い目のある人を赦しましたように」とは心から言えない。そんなことは出来ない、あるいはある人のことが思い浮かんで、他の人のことは赦せても、あの人だけは絶対に赦せない、そんな思いをもってしまうのではないでしょうか。 けれども、イエスさまはそのような私たちの思いをよくご存知の上で、「このように祈りなさい」と命じておられるのです。

 神さまに私たちの負債、罪を赦してくださいと求めている時に、イエスさまはその前提として「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るように教えておられます。何故このようにおっしゃるのか。私たちが人の罪を赦したら、それと交換条件として、神さまも私たちの罪を赦して下さるというのでしょうか。そうでないことは、イエスさまの十字架の死を考えれば明らかです。私たちが他人の罪を赦せていたならば、イエスさまは十字架で死なれることはなかったでしょうから。そう出来ない者たちだったから、イエスさまは私たちの身代わりとなって、十字架で死んで下さったのですから。

 ですから私たちが「私たちの罪を赦して下さい」と祈り求めるのは、この主イエスによって既に与えられている罪の赦しの恵みを本当に受け、それによって生かされていくことができるように、という願いなのです。そういう意味では私たちは、この祈りにおいて祈り求める罪の赦しを神様が与えて下さることを確信することができます。与えられるかどうかわからないあやふやなものを願い求めているのではないのです。神様は私たちの罪を赦して下さるのです。それではなぜそこに「私たちが自分に罪を犯した人を赦す」ということが前提として、あるいは条件のように付け加えられているのでしょうか。これは、私たちが人の罪を赦したら、それと交換条件で神様も私たちの罪を赦して下さる、ということではありません。そうではなくて、私たちは、自分に罪を犯した人を赦す、ということを通してこそ、私たちを赦して下さっている神様のみ心、その恵みを本当に知ることができる、ということでしょう。罪を赦す、それは負債を免除する、借金を帳消しにすることに喩えられています。借金を帳消しにするということは、貸した金はもう戻って来ないということです。つまり、貸した人が損をするのです。神様は私たちの負債を、帳消しにして下さいました。それは、それだけの損害を神様が引き受けて下さったということです。その損害が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死だったのです。罪を赦すということには、そういう損害が、痛みが伴います。主イエスは、私たちが、自分に罪を犯した人を赦すことにおいて、その損害を、痛みを私たちも体験し、それを負うことを求めておられるのです。それを自分も体験し、負うことを通してこそ、私たちは神様が独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちを赦して下さったその恵みを本当に知る者となるのです。「別にいいよ」と簡単に赦してしまえるような些細なことではないのです。それを赦すためには、私たちは相当の損害を、苦しみを引き受けなければなりません。自分が損をしなければなりません。まさに、人を赦すことは簡単ではないのです。しかしそれを敢えてすることを主イエスは私たちに求めておられるのです。そうすることの中でこそ、神様が主イエス・キリストによって私たちの罪を赦して下さった、その恵みを本当に知り、その恵みの中で生きることができるのです。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りつつ生きるとはそういうことです。そこにこそ、私たちが陥っている、互いに負い目を数え合い、赦すことができず、赦されることもできずにあがいている泥沼から抜け出す道があるのです。

 2006年10月にアメリカのペンシルバニア州ランカスターのプロテスタントの一派であるアーミッシュの小学校に、一人の男性が闖入し、児童や教員を銃で殺傷する事件が起こりました。これはアメリカだけでなく全世界に報道されましたから、覚えておられる方もいらっしゃるかと思います。この容疑者は犯行後に自殺しましたが、彼はアーミッシュの信者ではありませんでした。彼は事件の9年前に娘を亡くしており、それを契機に神への反発心を抱いていたようです。以下、その時のニュースから読みます。

 「米東部ペンシルバニア州にあるキリスト教プロテスタントの一派で、一切の暴力を徹底的に否定し、独自の共同体社会の中で生活するアーミッシュの運営する学校に男が乱入し、13歳、12歳、8歳の女子児童と7歳の女子児童2人の計5人が銃で撃たれ死亡した。死亡した中で最年長の13歳の児童は容疑者の男が教室内で多数の女児に銃口を向けた際「自分を先に撃ってください。他の子は解放してください」と告げた。また、撃たれて肩などを負傷した11歳の妹も男に対して「姉の次は私を撃ってください」と伝えたという。また一部児童が男に「なぜこのようなことをしているのか」と聞くと、男は「神に対して腹を立てているからだ」と答えたという。これらの状況は、妹ら生存者の証言などから判明した」

 これだけでも世界中に大きな衝撃と驚きの事件となったのですが、その後更なる衝撃が世界を走りました。それは、アーミッシュの人たちが、犯人を赦すと明言し、それを態度で示したからです。

 事件発生のその日に、アーミッシュの一部は犯人の遺族の妻と子どもたちは自分たちよりももっと事件の犠牲者である、つまり夫であり父を失った上に、自分の家族がこのような凶行を行なったという恥を忍ばねばならず、プライバシーも暴かれているということに気づいて、すぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから、私たちはあなたを赦します」と伝えたというのです。殺された何人かの親たちは、犯人一家を娘の葬儀に招待しましたが、さらに人々を驚かせたのは、犯人の埋葬式に参列した人の半数以上がアーミッシュの人たちだったことです。それも皆で示し合わせたのではなく、自然とそうなった、というのだから本当に驚きです。

 彼らは正に「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」を実践しました。私はこのアーミッシュの人々がなされたことを一つのモデルとするようにとの思いで、ここに紹介したのではありません。もしそうならば、それも一つの律法になってしまいますし、赦しを受けるための条件となってしまいます。そうではなく、彼らは、自分たちが赦しを実践することで、自分たちが神さまによって赦されていることを実体験出来たのではないかと思うからです。アーミッシュの人たちは隔離された社会の中で生きておられますから、その実態は詳しくは分からないですが、おそらく彼らの生活の中でも隣人の関係の泥沼はあることだと思います。しかし、その泥沼から抜け出す道を彼らは歩みだしたことだろうと思います。イエスさまの十字架の意味を、十字架で為して下さった贖いのみ業を真に受け止める者とされたことだと思います。そしてこんな驚くべきことをしでかしたのが、私たちと同じ主イエス・キリストの十字架と復活を信じるキリスト者であったことに、自分のような弱い者でも、その歩みをさせていただけるのではとの希望が与えられるからです。お祈りします。



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