皆さん、お帰りなさい。本日与えられた聖書の箇所に記されているのは、イエスさまがガリラヤ湖の嵐を一言で鎮められたという奇跡の話です。26節の「起き上がって風と湖をお叱りになると」というのはとても面白い表現です。まるで暴れている子どもに向かって命じているかのようです。イエスさまから見ると、風や嵐も子どものようであるようです。嵐が一瞬にして凪になった。とても不思議な話です。その時に湖上の舟に乗り合わせていた弟子たちだけでなく、それを見ていた人々はとても驚いたとあります。そして風や湖さえも従わせるこの方はどういう人なのだろうと思わせたのです。
本文に入っていく前に、一つ押さえておきたいことがあります。イエスさまのなさる奇跡は、単なる超能力ではないということです。先週は、イエスさまがらい病人を癒された話をみました。その時にも申し上げましたが、癒しの奇跡が起こったのは、イエスさまが意志されたことによります。それはイエスさまが心を動かされたからです。それは、イエスさまが人々の苦しみをご覧になって、その苦しんでいる人が救いを求められた時に起こっています。苦しむ人の必死の叫びを聞き、その願いに応えて、イエスさまが心を動かされて、奇跡を行なわれ苦しみから救い出されるのです。本日の場面においては、嵐になって、弟子たちの乗っていた船が沈みそうになったのですが、その時イエスさまは眠っておられたのです。弟子たちは恐怖に駆られてイエスさまを起こし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と叫びました。その弟子たちの恐れと願いを受けてイエスさまは風と波とを叱り鎮められたのです。ですから、この奇跡も苦しむものたちへの救いの奇跡なのです。
この「主よ、助けてください。おぼれそうです」という弟子たちの叫びの声ですが、これを直訳すると次のようになります。「主よ、お救いください。私たちは滅びようとしています」。その根本にあるのは「自分が滅んでしまう」ということです。それは文字通り死んでしまう、ということです。嵐に翻弄されて、自分の存在が失われてしまう、それに対する必死の叫びの声です。
24節の舟を襲ったのは、湖の上でのことですから「嵐」と訳されていますが、この言葉は「地震」という言葉と同じ言葉です。ですからこの「激しい嵐」は「大地震」とも訳すことができます。地震は昔も今も最も恐ろしい天災に違いありません。その恐怖は、自分たちが立っている地面そのものが揺れ、崩れていくことにあるのでしょう。存在の基盤そのものが揺る動かされる、人生が土台から揺るがされてしまう恐怖がそこにはあるでしょう。この時の弟子たちは、人生を土台から揺さぶり、崩壊させていく力を、湖の舟の上で体験したのです。その自然の力の前で、人間は全く無力です。ただうろたえて叫ぶしかない。そんな中で弟子たちは「主よ、救ってください。私たちは滅びようとしています」と叫んだのです。
眠っておられたイエスさまは、起き上がり「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」とおっしゃいました。なぜ怖がる必要がない、などと言われたのか。それはこの舟には、神の独り子である主イエス・キリストが乗り込んでおられるからです。イエスさまがおられる限り、舟が沈んでしまうことはないのです。それこそ、大船になったつもりでよかった。しかし弟子たちはそのことを見失ってしまいました。風や波さえも治める力をお持ちのイエスさまが自分たちの乗っている船にはおられるのだということを忘れてしまっているのです。それが「信仰の薄いものたちよ」ということでしょう。信仰が薄い、それは文字通りには、信仰が小さい、という言葉ですが、それは言い換えれば、主イエスが共におられることを見失ってしまうこと、それによって平安を失ってしまうことです。イエスさまが舟が沈んでしまいそうな嵐の中で眠っておられたということには、イエスさまご自身が本当の信仰の中に生きておられたことが示されています。イエスさまは安心して眠っておられたのです。それは、父なる神さまの守りと導きに委ね、父が共に居て下さることを信じる姿だと言えます。ところが弟子たちの方は、イエスさまが共におられながら、恐怖に捕らえられ、あわてふためいてしまっているのです。そこに彼らの信仰の小ささがあるのでしょう。
しかしそのように言うと、この話は、人生の様々な苦しみや荒波の中で、イエスさまを信じ、父なる神さまのみ手に委ねて、どんな状況の中においても平安を保ち、安心していることこそが「まことの強い信仰だ」、そこでいちいち恐怖に駆られてしまうのはまだ「信仰が薄く小さいからだ」、もっと大きな、嵐の中でも眠っておられるような本当の信仰が持てるようにならなければならないということを、この話から学び取るべきなのでしょうか。私はそうではないと思う。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と主イエスが言われたのは「そんな薄い、ちっぽけな信仰では駄目だ」と弟子たちを教えるためだったのではありません。では、この時、イエスさまは、自分のように眠ることを求めておられたのでしょうか。また、眠っておられたイエスさまを起こすことなく、自分たちの力で舟を操縦し、嵐と戦うことを求められたのでしょうか。そのいずれの場合も舟は涼み、弟子たちは溺れ死んでしまったのではないかと思います。その証拠は、起き上がったイエスさまが風と湖とを叱って嵐を治められたということです。それ以外に助かる道はなかったのです。嵐の中でほうっておいても大丈夫なら、主イエスは「大丈夫だからみんな私と一緒に眠りなさい」とおっしゃったでしょう。あるいは、人間の力を結集して対処すれば嵐に打ち勝てるなら「あきらめるな、頑張って舟を操れ、私も手伝うから」とおっしゃって、水をかき出されたことでしょう。しかしイエスさまはそのどちらもなさらなかった。そして風と湖とを叱られて、嵐を鎮められたのです。それは、それ以外にこの舟は助からないからです。イエスさまが嵐を鎮める以外には、彼らが助かる道はなかったのです。だから、弟子たちがイエスさまを起こして、主イエスに助けを求めたのは正しかったのです。そこで「イエスさまがおられるから大丈夫なんだ」とやせ我慢することはかえって身を滅ぼすことだったのです。やせ我慢と言うと言いすぎかもしれませんが、それは結局のところ、自分の精神力に頼ることです。信仰の力とは、そんな状況の中で眠れるようになる、自分の力でその難局を乗り切れるようになることでは決してありません。そうではなく、イエスさまにその嵐を鎮めていただく以外に救いの道がない、主イエスにその助けを求めて叫ぶことこそが、私たちの信仰であり、それこそが私たちの力となるのです。
では、なぜイエスさまはここで「信仰の薄い者たちよ」と言われたのでしょうか。この言葉は弟子たちを叱り付ける意味でおっしゃったことではありません。それを考えるには、この時の弟子の置かれている状況を押さえておかなければなりません。23節には「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った」とあります。弟子たちが自分で舟を出し、イエスさまに一緒に来てもらうようにお願いしたのではなかった。イエスさまがご自分の方から舟に乗って向こう岸を目指され、弟子たちはそれに従って舟に乗り込んでいるのです。彼らは、イエスさまに従っているのです。だのに、嵐が起こって波にのみこまれそうになったにもかかわらず、イエスさまはと言うと、眠っておられた。ですから、「助けてください」と言ってイエスさまを起こした弟子たちの心には、「あなたが向こう岸に行こうとして舟を出されたのでしょう。だのに、何をのんきに眠っているのですか。私たちはあなたに従ってついてきただけです。」とイエスさまを責める気持ちがあったと思います。そしてその気持ちの中に、イエスが共におられれば舟は沈むことはないという安心する思いはなかったのです。イエスさまはその弟子たちに向かって、叱責するためではなく、「大丈夫だよ、安心しなさい」との思いを込めて「信仰の薄い者たちよ」とおっしゃったのです。
舟は教会を、湖は世の中全般を指すのだと言われています。私たちは、世の荒波を、また世界を吹きすさぶ風や嵐にどうしても目が行ってしまいます。ですから、それらにもまれる時には、怖がり慌てるものです。それは仕方がありません。しかし、イエスさまを信じる者には、そこでの行動が問われます。「死にそうだ」と怖がり慌てた弟子たちは、イエスさまを起こしにかかりました。イエスさまに何とかしてもらおうとすがりました。イエスさまが私たちに求めておられるのは、自分たちの力で何とかしようとすることではありません。私たちは怖がっても慌ててもよいのです。私たちは、イエスさまを起こして、イエスさまに泣き叫んで「何とかして下さい」とすがればよいのです。お祈りをします。いつものように黙想の時をもちましょう。
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