「御言葉の権威」


 マタイ8章5〜13節
 2010年6月13日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。マタイによる福音書を読んでおりまし、今日も8章です。この8章と9章には、イエスさまの奇跡、特に病の癒しの話がまとめて載せられています。先週は湖で嵐を鎮められた記事を見ましたし、先々週はらい病人がイエスさまによって清められた話でした。

 今日の話の舞台になっているのはカファルナウムという町です。ここはイエスさまがガリラヤ伝道の根拠地としておられた町です。ここには14節以下にあるように、ペトロの家があり、よくそこに泊まられたようです。その町に入られたところ、一人の百人隊長が近づいてまいりました。彼が今日の話の登場人物です。

 百人隊長、以前の訳では百卒長となっていましたが、読んで字の如く、百人の部隊を率いるローマ帝国の兵隊です。階級的には下級将校です。勿論ユダヤ人ではありません。異邦人です。その異邦人であるローマ帝国の将校がイエスさまに近づいて来て声を掛けたというのです。何気なく読み過ごしてしまいますが、これはなかなか驚くべきことです。先々週の癒されたらい病人がイエスさまに近寄って来たのも驚きの出来事でしたが、今日のこの百人隊長がイエスさまに近づいて来て頼み事をしたとはなかなかあることではありません。自分の僕の癒しを願ったというのです。しかも、この時、この隊長はイエスさまに向かって「主よ」と呼びかけています。たとえ、僕の病で困っていたとしても、軍隊の権威でもって、イエスに命じるのが普通でしょう。

 この出来事と同じと思える話がルカの7章に出ておりますが、そちらでは、この百人隊長はローマの軍人でありながら、常日頃からユダヤ人たちに親切な人物で、ユダヤ人のために会堂まで建ててくれた人だった。だからこの親切な隊長の願いを聞いてあげて下さいと、ユダヤ人の長老がイエスさまに頼んだと記されています。そういう特別な事情でもないと、通常はありえないことだったのでしょう。実際そのような理由があったのかもしれませんが、マタイ福音書にはそういうことは一切記されてはいません。マタイは、普通では考えられない驚くべきことだったのだと、強調しているように思えます。

 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」という願いを聞いて、イエスさまは、7節で「わたしが行って、いやしてあげよう」と言ったと、訳されています。しかしこのイエスの言葉の訳し方は、議論のあるところです。というのは、この言葉は、全く別な解釈によって、このように訳すのでなく、「わたしに行ってあなたの僕を癒せというのか」とも訳せるのです。口語訳聖書でも「わたしが行ってなおしてあげよう」とされてはいますが、「わたしが行って癒すのか」とも訳せるのです。これは全く正反対の意味になるのですが、15章21節以下に記されている話との関連を考えると、「私に癒せと言うのか」という読み方も出来ることがわかります。
 その15章21節以下、「カナンの女の信仰」と小見出しがつけられていますが、イエスさまがティルスとシドン地方に行かれた時にカナンの女から、悪霊に苦しめられていた自分の娘の癒しを頼まれた話です。これは今日の話と同じく、異邦人から自分の身内の癒しを頼まれたという共通点があります。この時のイエスさまは「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」とおっしゃり、この女の申し出を却下されました。しかし、彼女は自分の娘を犬呼ばわりされたのですが、「ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とあきらめずにイエスさまにお願いした。百人隊長の言葉も同じことを言っていると読めるのです。いずれも異邦人であるゆえに、イエスさまから拒絶されたのですが、彼らはあきらめずに執拗に求め続けたのです。「わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。でも一言おっしゃってください」とすがったのです。

 百人隊長は言います。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きます。また、部下に『これにしろ』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 軍隊とは、権威と権限で組織が運営されています。そこでの上官の命令、言葉は絶対です。彼は決して上級の位にいたものではありませんが、その組織の中においては、彼の言葉は、下の者に対しては絶対的権限を持っています。そのように権限を持った者の言葉は一言であっても権威あるものであります。彼はそれをイエスさまに求めたのです。

 イエスさまはこの発言をことのほか喜ばれました。感心して「これほどの信仰を見たことがない」とまでおっしゃっています。確かに、それはイエスさまが最初に「私に言って癒せというのか」と拒絶ともとれる言葉を発したこととの変わりようを考えさせられる気持ちにもなります。でもそれは100%の拒絶ではありませんでした。

 普通、病の癒しは、その人に触れることによって行なわれるものです。しかし本日のこの癒しは、主イエスの御言葉による癒しです。イエスさまは当の僕には会っていません。同じ空間にいたこともありません。そんな場面であっても癒しが実現しました。13節に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」というイエスさまの言葉があり、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあります。イエスさまの一言で病は治りました。その一言とは「中風よ直れ」とか「病よ出て行け」というような言葉ではなく、「あなたが信じたとおりになるように」という一言でした。百人隊長は、イエスさまの癒しを信じたのです。イエスさまの御言葉を権威を信じたのです。その信仰によって、願いは叶ったのだといえます。

 この人が元々どんな人であったのか、イエスさまとの関係に関しては、よくはわかりません。しかし、イエスさまの話を間接的であれ聞いたのでしょう。また、癒しの御業を見たり聞いたりもしたのでしょう。多くの人たちもそれを経験して、驚きました。驚きがスタートになることはあることです。しかし、この人はただ驚いただけではありませんでした。そこから、イエスさまの御言葉に絶大な権威と力があることを信じたのです。

私たちに必要なことは、イエスさまの御業と御言葉に驚くだけではありません。驚きから始まり、さらに進んで、その御言葉にこそ自分を救い出す権威と力があることを信じることです。御言葉が自分の上に実現することを願い求めることです。私たちも、今日の百人隊長の言うように、主イエスの救いを受けるに相応しいものではありません。イエスさまを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではないのです。しかしそれでも、イエスさまの御言葉にこそ、私たちを救う権威と力があることを信じて、御言葉を求めていく時に、私たちが信じたとおりに、イエスさまの救いが与えられていくのです。お祈りします。




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