「天の国とは」


 マタイ13章44〜48節
 2010年6月27日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  皆さん、お帰りなさい。さて、本日もご一緒にマタイによる福音書から聞いてまいりましょう。本日は、13章44〜52節です。ここには、見出しにもあるように、天の国のたとえ、天の国とはどんなものであるかをイエスさまが弟子たちにおっしゃった話が記されています。
 
最初に申し上げておきますが、この「天の国」とは、人間が死んだ後に行くと考えられている所謂天国のことではありません。今日のマタイによる福音書は、主にユダヤ人を対象にして書かれたものですが、ユダヤ人は十戒の「神の名をみだりに唱えてはならない」の教えを厳格に守ることから、神という言葉自体も極力使わないように心がけました。そのため、神の国のことを述べるのに、そのように表現せず、天の国と書いたのです。ですから、ここの天の国とは、神の国のことです。神の国、それは神の支配、神さまがご支配なさるところとはどんなところかということがここには記されています。
 
先ずは、44節と45節に二つのたとえ話が出ています。最初の話は、天の国は畑に隠された宝のようなものだ、というのです。おそらく農民でしょうが、畑の中から宝を発見するのです。日本でも、地面から昔の小判や大金が見つかったという報道をごくまれにですが目にします。その大金や宝物はいったい誰のものになると思われますか。どうやら、今の日本の法律によると、これも一般の落し物と同じ扱いになるらしく、すぐに全て発見者のものという訳にはいかないようです。持ち主との話し合い次第ですが、5〜20%が発見者のものとなるそうです。
 
しかし、聖書の時代のユダヤでは、事情は異なり、本当の持ち主が現れたとしても、そのお宝は畑の持ち主のものとなったそうです。だから、発見者は44節にあるように、そのまま隠しておき、何食わぬ顔をして、「この土地が気にいったので」とか何とか言って、その畑自体を購入してでも自分のものにするのです。持ち物をすっかり売り払ってでも、畑を手に入れて、お宝を全部自分のものにしようとしたのです。
 
次の話は、天の国は「良い真珠を探している商人」のようなものだと、イエスさまはおっしゃいます。素人には真珠の良し悪しはよくはわかりませんが、この話では「商人」ですから、一目で本物かどうか、良い真珠かどうかが分かるのでしょう。そしておそらく、この商人は、常に本物の高価な真珠を探し求めていた人でしょう。出かけて行って、また持ち物をすっかり売り払ってそれを買う。天の国、神さまがご支配されるところというのは、そのようなことにたとえられると言うのです。
 
この二つは異なる点もありますが、共通しているのは、そのように、全財産、持ち物を全部売り払ってでも手に入れようとする点です。「持ち物の半分を売り払って」でも、「借金をして」でもありません。自分の所有している全財産をはたいて買い取るということです。畑の場合には、はっきりと「喜びながら帰り」とあります。真珠の方には、そうは書いてはありませんが、捜し求めていたブツに出会ったのですから、やはり喜び勇んだことだと思います。いやいやでもしぶしぶでもない。喜んで、それこそ天にも上る思いで、持ち物を売り払うのです。
 異なっている点は、畑の方は偶然見つけたであろうことです。小作人が地主の畑をいつものように耕していたのでしょうか。たまたまラッキーなことに宝を見つけたのです。真珠の方は、商売人が一所懸命に探し歩いて、高価な真珠を見つけています。そのように、偶然のことか探し回ってついに見つけたのかの違いがありますが、私たちにとっても神さまとの出会いは、さまざまでしょう。いかがでしょうか。
 
天の国、神の国、神さまの支配の場所を手に入れること、それはイエス・キリストのことでもあるのですが、私たちにとってそれは、全財産と引き換えにしても手に入れたという喜びが、今おありでしょうか。それほどの素晴らしい世界を意識しながら、日々生きておられるでしょうか。また、日曜の礼拝を迎えているでしょうか。
 
私たちはともすると、信仰というのは、「捨てる」ことではなくて、「加える」ことだと思ってしまっています。これまでの自分の人生に、さらに「天の国」を加えること。つまり「+アルファ」であると思ってはいまいか。自分の手に入れているものに、新たにもう一つのものをコレクションに加える。
 
今日の箇所では、そうではない。「持ち物全てを売り払って」買い取っています。ここでの持ち物というのは、何も財産だけではないでしょう。それまでの自分の生き方や生活を捨ててでも惜しくない。そこまでして手に入れる喜びが、この二つのたとえには表れています。天の国とは、財産どころではない、自分自身を献げる。一度しかない人生、一つしかない命、それを丸ごと神さまに献げるというのです。
 
三つ目のたとえ話、47節。「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。」
 
実はここは、間違いだとは言えないのですが、一つ原文とは異なり意訳がなされているところがあります。それは「いろいろな魚」となっている点です。口語訳では「あらゆる種類の魚(うお)」となっていますが、これが正しいのです。いくら何でも、網の中に「あらゆる種類の魚」ではおかしいと考えられたのか、「いろいろな魚」とされたのでしょうが、「全ての種類の魚」が網の中に入っているのです。これは、天の国のたとえであり、網はこの世界、漁師は神さまです。ですから、神さまは全ての人々を捕らえられます。しかし、世の終わりには良いものと悪いものに分けられ、悪いものは捨てられる。これを読むと、私たちは神の裁きの恐ろしさを感じざるをえませんが、これは49節にあるように、「世の終わり」のことです。
しかし、これは私たちを恐怖にとらえるために、イエスさまが語られているのではありません。網に「あらゆる種類の魚」が入っていたとあるように、網はこの世界そのものであり、魚は私たち人間です。これは、この世界をご支配なさっているのは神さまであり、終わりの日の選び、裁きは、そのことをはっきりさせるために語られているのです。この網の唯一の所有者は神さまだけである、今のこの世界には神さま以外の支配者が力を跋扈しているようにも思える。しかしそうではない、この世界の真の支配者は神さまであり、そのことがあらわにされるのが、世の終わりの裁きだというのです。だから、今は畑に隠されている神さまのご支配を信じて、忍耐と希望をもって生きなさい、という励ましです。

 今日の話の前の13章36節を見ると、これは弟子に向かって語られた話です。弟子たちが偉かったのか、立派だったのか 分別のある者たちだったか。この後の弟子のイエスさまに対する言動を見ていると、答えはどうもノーです。ただ、彼らは親や家族、それまでの仕事やおそらく財産も捨ててイエスさまに従って行きました。彼らの普段の振る舞いが問題にされているのではないのです。天の国を手に入れた後のことが、天の国に入れるかどうかの試金石ではない。また、網のたとえからは、彼らがどうであれ、網によって捕らえられた魚であることが分かります。そのことを喜ぶかどうか、また、神の国は入れたことを受け入れるかどうか、それが49節の振り分けの基準なのです。正しい行動をとるかが問題なのではありません。
 
私たちも今日このようにして礼拝に来れたことを心から感謝しましょう。お祈りします。





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