「それをここに持って来なさい」


 マタイ14章13〜21節
 2010年7月4日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



  皆さん、お帰りなさい。本日の神学校週間礼拝に与えられましたみ言葉は5000人の給食と呼ばれるイエスさまが男だけで5000人はいた群衆に満腹させたという奇跡の話です。
 
この5000という数ですが、この中には、21節にあるように、女性と子どもは入っていませんでした。当時は、女性や子供は頭数には入れなかったのです。ですから一説によると、女性や子どもを含めた実際の人数は、1万人は優に越えていただろう、もしかすると1万5千人ほどはいたのではないかとも言われています。この時のイエス一行には、それほど多くの人々が付いて回っていたのです。

 この話は本当に不思議な話です。たった2匹の魚と五つのパンでそれほど多くの人が満腹したというのですから。どうしてそのようなことが可能になったのでしょうか。

 時は夕暮れになりました。目の前には多くのお腹を空かせた群衆たちがいました。弟子たちはイエスさまに「群衆を解散させて、自分で村に食べ物を買いに行か」せようと申し出ました。しかし、イエスさまは16節で「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」
とおっしゃいました。弟子たちのまごついた姿が目に浮ぶようです。

 どうやってそんな食料を調達することができようか、困った弟子たちは言いました。17節「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」としか言えませんでした。正直なところです。弟子たちが、そんな食料を持っていないこと、また買い揃えるお金も持っていないことは、イエスさまは重々ご承知だったのです。弟子にどうしたらよいかを考えようとしておっしゃったのか。また、弟子を困らせるためにおっしゃったのか。
実は、弟子たちのこの「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」この言葉を引き出すことが、イエスさまの目的だったのです。このパンと魚は彼らが持っていた全てでした。弟子たちの持っているもの、彼らの能力、力がどれだけのものであるかを明らかにし、そのことに気づかせるために、イエスさまは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」という命令をされたのです。

 イエスさまはそれをここに持ってくるように言われました。弟子たちはこんなちょっとの物では何の役にもたたないだろうと思ったことだろうと思います。しかし、イエスさまはそれでも、それを差し出すように求められたのです。そしてそれを用いて、イエスさまは大きな奇跡を行なわれたのです。
イエスさまは、その五つのパンと二匹の魚を、19節で「天を仰いで賛美の祈りを唱えて、パンを裂いて弟子たちにお渡しにな」りました。ここは、以前の口語訳とは少し訳が変えられています。口語訳では「天を仰いでそれを祝福し」となっていました。これは、どちらも一長一短のある訳です。なかなか日本語にしづらいのです。

 口語訳の"それ"「すなわちパンと魚を祝福した」からは、イエスさまがパンと魚に対して何かを語られたように受け取れます。しかし、原文には、「それを」という言葉はありません。イエスさまは「天を仰いで」すなわち、父なる神さまに向かって、何かを語られた。つまり 神さまに祈られたのです。パンと魚に向かって、「増えろ」というような呪文の言葉を掛けられたのではありません。その点では、新共同訳の「賛美の祈りを唱え」が良いように思います。しかし原文には、そのような「賛美の祈り」という言葉はありません。原文は、たった一言だけ 「祝福」した、とあるだけです。だからここは口語訳から「それを」を取り「天を仰いで祝福した」とするのが。原文に最も近いと思います。ただ「祝福する」という言葉には、通常神さまが人間をあるいは、上位の者が下の者を祝福するというイメージがあるように考えられます。だからイエスさまが天に向かってつまり、神さまに対して語るのは祝福ではなく賛美だと考えたからでしょう。だから、新共同訳は「賛美の祈りを唱え」にしたのだと思われます。

 この「祝福する」という言葉ですが、これの元々の意味は、「良い言葉を語る」です。"神さまが人間に対して良い言葉を語"れば、祝福するになり、"人間が神さまに向かって良い言葉を語"れば、賛美、感謝になるのです。だから語る者と相手の関係によって、「良い言葉」の内容は変わります。
今日の奇跡のからくりというかシステムを説明することなど出来ません。私が申し上げられるのは、イエスさまの人間の力を超えたわざだとしか言いようがありません。

 さて今日のこの奇跡ですが、ほんの少しのパンと魚を大きく増やして、多くの人の腹を満たした、という御業を見るのに、別な箇所と比べてみようと思います。 マタイ4章3節(4ページ)をご覧いただけますでしょうか。これは、イエスさまが荒れ野で悪魔から誘惑を受けた時のことです。
 3節「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」
 この「誘惑する者」は悪魔のことです。ここで悪魔の言わんとしていることは、単に石をパンに変えて自分の腹を満たしたらどうかということではなく、貧しい腹をすかせた人々に食べさせて満腹させれば、みんなお前に従うぞ、ということです。その意味では、今日の14章の話は、悪魔が言ってきたことを実践されたとも言えます。

 しかし、この2つの話には決定的な違いがあります。それは、今日の5000人の給食では、イエスさまはご自分の力で、そこらあたりに転がっていた石をパンにされたのではないということです。実際、悪魔の誘惑には乗れらなかったのですから、違いをどうこうというのもおかしいかもしれませんが、この時イエスさまは、石ではなく、弟子たちの持っていたものを用いて御業をなさいました。先ほどの言葉を用いるならば、その良い物と弟子たちには思えなかったパンと魚を取り、天に向かって「良い言葉」を語られたのです。それは祝福であり、賛美であり感謝だっただろうと思います。  
イエスさまはおっしゃいます。私たちのちっぽけで何の役にも立たないと思えるものを「ここに持って来なさい」と。そして、それに感謝して受け天に向かって」「良い言葉」を語り、それを弟子たちにお渡しになり、自分で群衆に配るようにお命じになるのです。奇跡を起こされたのはイエスさまですが、それを配るのには、弟子たちをお用いになるのです。

 今週は、神学校週間です。これは、先ほどのアピールや、巻頭言にも記した祈りの課題にもあるように、西南神学部の神学生のために行なうのではありません。私たち一人ひとりが、イエスさまからの命令にどのように応えるかが問われる時です。

 イエスさまは私たちにおっしゃいます。「それをここに持って来なさい」と。お祈りをしましょう。いつものように黙想の時をしばらく持ちます。






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