皆さん、お帰りなさい。今回4月より基本的にマタイによる福音書を読んでまいりました。全てを読むこともしておりませんし、まだまだ先は長いのですが、本日とこの福音書の中間点とも言える16章を再来週読んで一先ず終わらせていただきます。続きは次の機会に譲りたいと思います。8月と9月は詩編を中心にとりあげます。
さて、本日は15章21〜28節のカナンの女、マルコ福音書ではシリアフェニキアの女と書かれている話です。これは、初めて読んだ時には、正直イエスさまお言葉とは思えぬ言葉が出て来て驚かされます。
そのことは後で触れるとして、イエスさまがガリラヤ地方を出て、ティルスとシドンの地方に行かれた時のことでした。聖書の後ろに地図がありますので、そちらをご覧いただきたいのですが、巻末の6の「新約時代のパレスチナ」とある地図です。左の一番上のフェニキア地方にティルスとシドンがありますが、ここはユダヤ人の地ではありません。外国人の異邦の地であります。今日の24節にもある「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃっているイエスさまが、なぜ異邦人の地に行かれたのか、それについては記されていませんので推測するしかないのですが、ユダヤ人から身を隠そうとされたのではないかと思います。ファリサイ派や律法学者たちとの論争、また救いを求めて集まって来る夥しい数の民衆たち、彼らから一時離れようとされたのではないでしょうか。
そんな時に、フェニキアの地で出会われたのが、今日の登場人物である女性です。22節には「この地に生まれたカナンの女」とありますから、彼女も異邦人です。どうやら、「出て来て」とあることからも、彼女はイエスさまの評判を聞いて、イエスさまに会うために出かけて来たのでしょう。悪霊にひどく苦しめられていた自分の娘の救いを求めてやって来たのです。彼女は異邦人であるのに、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。これはイスラエルの民の救いを意味する言葉です。ユダヤ人から身を隠すつもりで異邦人の地に来られたイエスさまが、異邦人からそのように声を掛けられたのには、イエスさまも驚かれたのではないでしょうか。この言葉に、この女性の真剣さ、悪霊にひどく苦しめられていたかが表われています。
この女性の必死の呼びかけに、イエスさまは最初、何もお答えになりませんでした。彼女の願いを無視されているのです。しかしそれでも彼女は、叫び続けました。弟子たちはうるさがって「この女を追い払ってください」とい言いました。それに対してイエスさまは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃいました。これは弟子に向かっておっしゃったというよりも、この女に聞かせようとしての言葉だったでしょう。自分が父なる神さまから遣われたのは、イスラエル民族のためであって異邦人のためではない、そう言ってこの女の願いをはっきりと拒絶されたのです。何と薄情なことかと思えます。
ところがこの女はそんなことではめげませんでした。イエスの前にひれ伏して「主よ、どうかお助け下さい」と頼みます。この「ひれ伏し」というのは、「礼拝して」という意味の言葉です。彼女は礼拝しつつ願ったのです。しかしそれに対しても、イエスさまは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と全く受けつけようとされませんでした。ここで「子供たち」と言われているのはイスラエルの民のことで、パンは与えられるべき神さまの救いのことです。小犬にすぎないあなたたち異邦人に与えるパンはない、おっしゃったのです。これまでのイエスさまの態度との違いに私たちは驚かされます。イエスさまの言葉とは思えませんし、考えてみて下さい。これはとても失礼な対応です。自分に助けを求めている人に向かって、それもその人が失礼な頼み方をしてきたのならいざ知らず、この女は「主よ、ダビデの子よ」というユダヤ人としては最高級の敬意を払って、頼んでいるのです。ユダヤ人でさえ、ここまでのことは言ってはいないほどです。それを、ここでイエスさまは、人間でない、犬呼ばわりをされているのですから、酷い話です。
イエスさまが何故このような応対をされたのか、様々な解釈がなされています。一番よくなされているのは、イエスさまは、ここでおっしゃっているように、この時はご自身の言葉にもあるように「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」から、救い主としての働きは、第一義的には、ユダヤ人に対してのことだったのだというものです。その通りでしょう。私はそのことを否定するつもりは毛頭ありません。しかし、ここにおいてそのことを詮索してみても始まらないのではないかと思います。
また、このときのこの女性がイエスさまにいくら拒絶されてもめげることなく必死に願い求め続けたことで、その願いが叶っていることから、あきらめずに願い続けることが必要だということを、私たちはここから読み取ればよいのでしょうか。
この話のポイントはそれらのことにあるのではありません。この話のクライマックスは何と言っても「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエスさまのお言葉に対する彼女の応答です。彼女は「主よごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言っています。これは単にあきらめずに求め続ける人間の応答だけではありません。私たちは今日の話からは彼女のこの言葉のもつ意味をしっかりと受け止めなければなりません。イエスさまはここでは、明らかにこの女性を犬呼ばわりされています。イエスさまだとはいえ、これはとても失礼です。しかし彼女はそれに対して「主よ、ごもっともです」と答えているのです。自分を犬のように扱うことに対してそれを受け入れているのです。それは、自分は救いを受けるような者ではない、救いに与ることを権利として主張できるような者ではないことを認めていることです。
私たちも試練や苦しみの中でイエスさまに救いを求めて祈ります。「主よ、憐れんでください」と願います。そして礼拝においても「私たちはあなたの御前に立つことの出来ない罪びとです」などと祈りもします。けれどもどこまでそう思っているのかは怪しいものです。本心は自分がイエスさまの救いに与るのに相応しくないとは、これっぽちも思っていない。さらに言うと、困っている私たちのことを神さまが応えてくれるのは当然だと思う心もあります。すると、どうなるか、祈りが叶えられないとすぐに祈らなくなってしまう。時には腹をたてることもある。そしてもし今日の話のように、小犬呼ばわりなどされようものなら、神さまに悪態をついてしまうのではないでしょうか。今日の場面に自分をおいてみるのが、怖くなるほどです。
しかし今日のこの女性にはそのようなところは全く見受けられません。「主よ、ごもっともです。」と、自分がどれほどのものであるのかを受け入れています。救いに値するものでないこと、自分は小犬に過ぎないなのだと認めているのです。そして「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と返しました。
ある説教者は、このところについて「この女はイエスさまから一本とっている」と評しました。イエスさまに勝つほどの信仰を保持しているというのです。 28節でイエスさまは「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃっています。この「立派だ」と訳されている言葉は、直訳すると「大きい」という意味の言葉です。「信仰が大きい」では日本語としてしっくりこないと訳された方は思われたのでしょうか。本田哲郎神父訳では「大したものだ」としていますが、この方が原文に近いように思えます。
これまでもイエスさまは、何度か、正確に申しますと、マタイ福音書では3度ですが、「信仰の薄い者よ」とおっしゃっています。具体的には6章で「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む者たちに向かって、二度目は8章で、湖で嵐に遭い船が沈みそうになって恐れている弟子たちに、そして14章で、水の上を歩き出したのに、風を見て怖くなり溺れかけたペトロに対して、「信仰の薄い者よ」とおっしゃっています。そのうちの一箇所だけみてみましょうか。14章31節(28頁)です。これはイエスさまが弟子たちだけを舟に乗り込ませて向こう岸へ行かせた時のことです。逆風が吹いてきて、彼らが悩まされていると、イエスさまが湖の上を歩いて行かれた。それを見たペテロが「わたしも水の上を歩かせてください」と頼んだ。最初は湖の上を歩けていたペテロでしたが、風を見たために、沈みかけて「主よ、助けてください」と叫んだ時に、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とおっしゃっています。後の2箇所も細かく述べると異なりますが、いずれもイエスさまを疑ったり、神さまの愛の導きが信じきれていない時のことです。
実は、この「信仰の薄い」というところは、原文ではいずれも「信仰が小さい」という言葉が使われているのです。この時のイエスさまは、この女に向かって「あなたの信仰は大きい」と語っておられます。この女の人には、明日の生活を心配している風もなく、また周囲の状況を見て恐れてもいない。疑いと恐れに陥ってはいないことをおっしゃったのでしょう。自分は主イエスの救いに全く値しない者だと自覚し、イエスさまから拒絶されるような厳しい現実の中でも、なお恵みへの希望を見つめている。それを評して「あなたの信仰は大きい」とおっしゃったのでしょう。大きいことが即良いことなのかとも思えるほどですが、信仰ということに限っていうならば、目先のことに拘らず、また神さまのみこころさえ変えてしまうような、神さまの救いを奪いとる信仰は、小さいものではないでしょう。私たちもこの女の信仰に倣いたいものです。お祈りをします。いつものように黙想の時を持ちましょう。
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