「なんぢら我を誰と言ふか」


 マタイ16章13〜20節
 2010年7月18日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。本日与えられましたこのマタイ福音書16章13節以下の話は、この福音書の中で最も大事な箇所の一つです。今日は19、20節については触れませんが、ここにはイエスさまの「あなたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対して一番弟子であったペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたこと、そしてその告白の上に、イエスさまが自分の教会を建てるとおっしゃったことが記されています。

 イエスさま一行がフィリポ・カイサリア地方に行かれた時のことでした。ここはヘロデ大王の息子の一人のフィリッポスが築いて、時のローマ皇帝ティベリウスに献上したと言われている町です。そこでイエスさまは最初に弟子たちに次のように尋ねられました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。「人の子」とはイエスさまがご自分のことを言われる時の言葉です。イエスさまは自分の世間での評判を気にされていたのではありません。これは、その次の第二の質問への準備としてなされたものでした。弟子たちはいろいろな答えを出しました。「『バプテスマのヨハネだ』という人も、『エリヤだ』と言う人もいます」バプテスマのヨハネとは、イエスさまが来られる直前に荒れ野で人々に悔い改めを説き、イエスさまにバプテスマを授けた人物でした。聖書は彼のことを、人々がイエスさまを受け入れるための備えをした人物だと述べています。「エリヤだ」というのは、旧約聖書で活躍した預言者の一人で、神さまの救いの実現の前に再びこの世に遣わされると信じられていた人物です。次のエレミヤもユダヤの歴史における代表的な預言者です。そのように当時の人々が、イエスさまのことを過去の偉大な預言者たちと肩を並べる存在として理解していたことが分かります。そしてまた、そのように答えているということは、弟子たち自身が、自分の従っていたお師匠さまの世間での評判を気にしていたことの表れだったのでしょう。彼らは先生の評判に一喜一憂していたのです。

 その答えを聞いた後で、イエスさまは肝心な第二の質問を弟子たちに投げかけられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」世間の人々のことは分かった、それでは、あなたがたは、私のことを何者だと思っているのか、と問われたのです。これこそが、弟子たちだけでなく、私たち一人ひとりにイエスさまが問われている肝心な質問です。そしてこの質問にどう答えるかが、私たちの信仰にほかならないのです。

 しかしこれは、信仰、イエスさまを信じることに対して通常抱いているイメージとは異なるかもしれません。私たちは、キリスト教信仰とは、キリストの教えを聞いてそれにいかに従っていくのか、どのように生きていくのかだと思っていることが多いようです。あるいは、イエスさまが私たちと共にいて下さることを信じて、そのイエスさまに依り頼むことで慰めや励まし、支えを受けることがイエスさまを信じることなのだという思いもあります。それらが間違っているというのではありませんが、それは信仰の中心ではありません。信仰の中心、肝心要は、私たちがイエスさまとは自分にとって何者であるかを認め信じることです。それなしには、いくらイエスさまの教えを立派に行なうことが出来ても、聖書の教えに従って良く生きれたとしても、それは道徳を実践することと変わらないことになってしまいます。信仰の後についてくるものであって、信仰そのものではありません。また、いつも共に居て下さるイエスさまにどんなに従って自分の生き方を委ねていても、本当の慰めや平安にはつながらないのです。そして、少し表現は難しいのですが、この肝心要のことは、イエスさまが教えてくれることではないのです。イエスさまは、私たちに模範を示して下さったとは言えます。しかしイエスさまは私たちに「あなたはわたしのことを何者だと言うのか」と問いかけてこられるのです。この質問に答えるのは、私たちです。そしてこの問いに答えを見出すことで、イエスさまに答えていくことの中で、私たちはイエスを信じる者となっていくのです。

 私たちは、イエスさまからのこの直接的な質問に答えることを避けようとする気持ちが起こってくるのも事実です。先ほど、信仰とはイエスさまの教えを聞いて従うことだと思うことが多いと申しました。また、イエスさまが共に居て下さることを信じて慰めや支えを得ることが信仰だと思っていることもあるとも述べました。これらはいずれも、今日のイエスさまからの問いを避けて、それに答えることなしに信仰者であろうとする一つの姿でもあります。

 「あなたは私を何者だと言うのか」という問いに答えなくても、キリストの教えに従って立派に生きていくことは出来ます。また、共に居て慰めを与えて下さるキリストと共に歩むことも出来ます。しかしそれは、繰り返しになりますが、イエスさまを信じることではありません。そしてイエスさまは、ただ道徳を教えられるお方だったのでも、ただ慰めだけを与えるお方だったのでもありません。イエスさまは、私たちに「あなたはわたしのことを何者だと言うのか」と問うて、私たちに信じる者となるように働きかけるお方です。しかし、ここでペトロにイエスさまがお尋ねになったように、「あなたはわたしのことを何者だというか」という問いを常に投げかけられるお方なのです。道徳的に努力して生きるにせよ、慰めや平安を求めて生きるにせよ、それらは、私たちがイエスさまからのこの問いの前に身をさらすことを避けて生きようとすることです。しかしそれでは、いつまでたっても本当の信仰にはなりえません。本当の信仰とは、主イエスからの問いかけを受け、それに答えることです。

 「あなたは私を何者だと言うのか」。今日のタイトル、これは以前の文語訳聖書から採りましたが、「なんぢら我を誰と言ふか」この問いは、私たちの心の奥底を刺し貫きます。私たちがイエスさまとどのような関係に立っているか、立とうとしているかを明らかにします。自分がどう思っているかを留保して、人がどう言っているかを述べることで、イエスさまからの問いをかわそうとします。

 イエスさまなど自分にとって何者でもない、大した意味も持たないとして捨て去るのか、あるいは人生のちょっとしたアクセサリー、しゃれた飾りぐらいのものとして、イエスさまを気が向いた時に身につけて楽しむようなものとするのか、あるいは風邪を引いたり体の具合が悪い時には駆け込んで薬をもらうけれども、それ以外の順調な時は、その存在を意識さえしないホームドクターのような存在にしているのか、あるいは寂しい時、悲しい時に話し相手になってくれる友人のようなものとしているのか。これらはいずれも根本的に間違っているのではありません。イエスさまは私たちのそうした求めに応えては下さるお方であることは確かです。

 しかしこの問いは、私たちが、イエスさまのことを、自分のまことの救い主として、神として信じ、そのみ言葉に聞き従っていこうとするのかを明らかにするのです。そこでは、「分かりません」で済ますことはできません。また、私にとってはいざ知らず人々は何と言っているかでかわすこともできません。イエスさまは「あ・な・た・はどう思うのか」と問うておられるのです。

 シモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。「メシア」はここの原文では「クリストス」日本語では「キリスト」
です。キリストはイエスさまの名前ではありません。これはヘブライ語で「メシア」に当たる言葉をギリシャ語に訳したものです。その本来の意味は「油注がれた者」です。神さまによって頭に油を注がれ、特別な使命へと任命された人を意味していましたが、次第にメシアは、神さまが約束下さった救い主を意味する言葉となりました。ペテロは「あなたこそ、キリスト救い主です」と答えたのです。

 イエスさまは、この答えに対して「あなたは幸いだ」とおっしゃいました。これは単に「あなたの答えは正しい、正解だ」ということではありません。イエスさまはペトロが、ご自分が期待していた正しい答えをしたことをほめておられるのではないのです。これは祝福の言葉であり、「良かったね」という意味の言葉です。イエスさまは、ペトロの答えを喜ばれたのです。

 そして18節で「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃいました。これまでの彼の名はシモンでした。ペトロは、「岩」を意味する「ぺトラ」から来ています。これは語呂合わせで「あなたはペトロだ。わたしはこのぺトラの上に教会を建てる」と言われているのです。イエスさまがここで見つめておられるのは、ペトロという個人ではないでしょう。それはむしろ、彼が神さまの恵みによって与えられた、イエスさまの質問に答えた信仰告白です。主イエスをメシアと信じる、その信仰告白の上に、キリストの教会が建て上げられていくのです。ペトロの幸い、主イエスをメシア、生ける神の子と信じる者の幸いとは、イエスをキリストと信ずる教会を形作る者となる幸いです。この幸いは、教会において与えられる、教会の一員となることにおける幸いにほかなりません。

 私たちも、ペトロに倣って、イエスさまを自分にとって救い主と告白することで、教会の一員となる幸いを味わいたいものであります。お祈りをします。





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