「詩編23編」


 詩編1〜6節
 2010年8月1日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。さて、今月と来月は予告しておりました通り、詩編をご一緒にみてまいりたく思っています。詩編は、ヘブル語では"テヒリーム"と言います。これは「讃美歌集」とでもいう意味です。そしてその詩編の中で最も多くの人に愛唱されている詩の一つが、この23編でしょう。伊勢崎教会でも、毎月第四週目の礼拝においてはこの詩編が交読されていますから、中には暗唱されている方もおられるのではないでしょうか。

 この23編が多くの人に愛されている理由、それはこの作者の思いと私たちの思いが重なり合うところがあるからだと思います。そして私たちは、この詩編の作者のような信仰を持って、神さまを信頼していきていきたいと願うのではないでしょうか。

 1節の最初の表題のところに、「ダビデの詩」とあります。次ページの24編25編の表題にも同じように記されており、全150編中、「ダビデの詩」と書かれたものが73個あります。伝統的には、ダビデによって作られた詩だと言われてきました。ところが詩編の研究が進む中で、この「ダビデの詩」は「ダビデのための詩」と訳すことが出来ることが分かってきました。だから、ダビデが直接作っただけでなく、ダビデのために、またダビデのことを思って詠んだ詩でもあることになります。自身が作ったにしろ、あるいは後の時代の編集の手が入ったにせよ、あるいは他の人がダビデを思って詠んだにせよ、この23編がとてもすばらしい詩であることにはかわりありません。

 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」
 この23編の作者は、主である神さまへの信頼を、主を羊飼いに、自分を羊にたとえて歌っています。この詩の作者がダビデであったかどうかを特定はできませんが、ダビデのように実際に羊飼いであったかもしれません。そのように、作者は羊飼いが羊を愛し養い導くように、主である神さまへの信頼が歌われております。
 2節「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い    魂を生き返らせてくださる」

 作者は、神との親しい交わりの中で、豊かに満たされている状態を、羊飼いが羊に草をお腹一杯に食べさせ、水を十分に飲ませて、羊が満ち足りている姿として歌っています。ただ、私も最初に読んだ聖書が口語訳聖書であったことから、口語訳の方が印象に残っていますが、「青草の原」は「緑の牧場」、休ませは「伏させ」、更に「憩いの水のほとりに」は「いこいのみぎわに」でした。特にこの「みぎわ」という言葉から、子どもや教会の名前を"みぎわ"と名づけられることもあります。私の母教会も「みぎわ教会」でした。「いこいのみぎわ」というのは、元々は静かな水という意味で、流れている川とか水が噴出している泉というよりは、静かな池や沼のことをさしているのかもしれません。

 後半部分では、羊飼いと羊の関係は、旅人をもてなす主人と旅人へと移行していきます。イスラエルでは、旅人をもてなすことは大切な務めであると考えられていました。それは自分たちがかつて遊牧民であったころは旅人であり、定住民の間に寄留させてもらった時の感謝の表れです。そして最後には、その関係は神殿において神さまを礼拝する人と神さまという、正に実際の関係となって結ばれています。

 ところで、今回この詩編を読んで黙想し、準備をしている中で、私は、この詩編に慰めを得ながら同時に、これは安易な気持ちで親しめるものではないなあ、とも感じさせられました。それはこの1節の後半の「わたしには何も欠けることがない」という文言によります。

 私も、主を羊飼いのように導き養って下さるお方だと認識し、そう信じております。しかし心から、自分には何も欠けることがない、と告白できているだろうか、そう信じているだろうかと感じたのです。正直に言って、心もとない気がするのです。皆さんの中にもそのように思われる方もいらっしゃるかもしれません。私たちは、自分の生活に、自分の人生に欠けたものを感じながら生きているのではないかと思うのです。あれが欠けている、これが足りないと不安や、時には不満を抱きながら生きているのではないでしょうか。そして、その欠けているもの、足りないものを神さまによって満たしてもらおうと願いながら生きているのではないかと思います。

 この詩の作者は、「わたしには何も欠けることがない」と歌っています。しかし、それは彼が全てのことに満ち足りていたから、こう歌ったのでしょうか。自分の人生に欠けているもの、日々の生活に不足しているものは何もないと思っていたのでしょうか。彼が、自分の人生に思い描いた通りに順調に進んでいたのでしょうか。

 どうも、そうではないのではないか、という思いが私の中に与えられました。もし、仮に、人生に欠けを感じず、生活の不足なく万事が順調に進んでいると思っている人がいるならば、その人の口から「わたしには何も欠けることがない」という言葉が出てはくるでしょう。しかし、それは人間的な満足を表す言葉ではあっても、神さまとの関係における信頼の言葉ではありませんし、もしこの詩編がそのような思いを歌ったものであるならば、私たちの心に響くものとはなりえないように思えるのです。

 この作者が、単に人間的な満足を口にしているのでないことは明らかです。彼の人生には、人間的に欠けを感じない時もあったかもしれません。順風満帆な時、悩みや苦しみを感じない時もあったことでしょう。けれども、それが全てではなく、4節にあるように、この人にも「死の陰の谷を行くとき」があったのです。5節の「苦しめる者を前に」する体験があったのです。それは死の不安におびえ、死を覚悟するような瞬間だったのかもしれません。人間関係に悩み、もだえ苦しんだのかもしれません。何らかのトラブルやストレスに悩み出口の見えないトンネルの中でうめいたことがあったかもしれない。それが具体的には何であるかはわかりませんが、4節の記されている「災い」があったに違いないのです。そのような人生の苦難や災いの中で、彼は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と感じたのです。彼はそのような中で神さまと出会い、神さまによって導かれた体験を振り返って「わたしには何も欠けることがない」と告白しているのです。人間的に見れば、置かれたところに欠けが無いわけでは決してなかったでしょう。しかし、それでも欠けを欠けとは思わない心、不平や不満を思わない心で、この詩人は生きているのです。そのような心を、神さまとの生き生きとした関係において、与えられているのです。

 それでは、神さまとの生き生きとした関係を、この詩の作者はどのように造り上げ、その関係に生きれたのでしょうか。1節の「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」この訳には、非常に残念なことなのですが、とても重要なある言葉が欠けています。それは口語訳にはあったのですが、お気づきの方あるでしょうか。口語訳では「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」でした。そうです。「"わたしの"羊飼い」の"わたしの"が新共同訳では訳し出されていないのです。わざわざ言わなくとも、意味が明らかだから、と判断されたのかもしれません。しかし、原文にはしっかりと"わたしの"にあたる言葉が入れられています。それも、私たちのではありません。羊飼いと羊の関係ですから、羊は群れで飼われるものであることを考えると、"わたしたちの"でもよいように思えますが、作者はそうは歌いませんでした。「主は"わたしの"羊飼い」と歌っているのです。それは、神さまとの一対一の関係を述べようとしたからでしょう。優秀な羊飼いですから、自分たちの群れのあの羊が迷子になったことがあった、また別なあの羊が敵に襲われそうになったのを羊飼いが助けた、そんなことを念頭において、この詩人はこの詩を詠んだのではありません。作者はまるで、自分という羊を1匹だけしか飼っていないかのように、自分だけが大切に守られているかのように歌っているのです。

 もちろん神さまは一人の人間だけを導き養うお方ではありません。私たちの全てを、全ての人間をお心にかけて下さるお方です。けれども、主は"わたしたちの"羊飼いと告白する前に、主は"わたしの"羊飼い、と言えるほどに、神さまと一対一の関係を生きることが信仰には重要なのです。

 聖書を通して神さまから語りかけられることは、この"私"に語られていることだと聞くことです。この言葉はあの人に語られていることだとか、あの人に聞かせてあげたい、○○さんが聞くべきことだと思って聞くなら、そこには神さまと私の関係は成立しません。

 人生は、どのような状況で生きるかよりも、誰と生きるかこそが重要なのです。人間的には欠けを感じていても、死の陰の谷を行き、災いに遭うような事態になっても、私を愛しておられる神さまが私と共に居て下さることを信じて生きるならば、私たちには「何も欠けることがない」のです。お祈りをします。与えられたみ言葉に思いを馳せるために、しばらく黙想の時をもちましょう。





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