「心の清い人」


 詩編51編12〜14節
 2010年8月8日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。8月に入って詩編からみ言葉に聞いておりますが、今日は51編です。これは、罪を犯して苦しみ抜いた人がその苦しみとそこからの救いを願って歌った悔い改めの詩です。1節の見出しには、先週と同様に「ダビデの詩」と記されているところから、ダビデが自分の犯した罪のことを歌ったものとされていますが、これは先週も申し上げましたように、そのダビデのことを思って詠んだ詩であったのかもしれません。ただ2節には「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と説明されています。ダビデはよく知られたイスラエルの名君の誉れ高いダビデ王のことです。彼は自分の部下であったウリヤの妻のバト・シェバと通じて姦淫の罪を犯しました。彼はバト・シェバを一目で気に入り、彼女を宮殿に召しいれ、床を共にしました。その時、彼女の夫であったウリヤはアンモン人との戦いの真っ最中でしたが、戦いの指揮を執らせていた将軍のヨアブに命じてウリヤを最前線に送り込み戦死させました。そして喪が明けてからバト・シェバを正式に妻として迎え入れます。

 この罪の事実を知っているのはダビデ以外には、ヨアブ将軍だけでした。ダビデはその後1年ほどの間、王として普通に職務をこなし、ウリヤとの結婚生活も続けていました。その間、おそらく何度も神殿に出入りし、何食わぬ顔をして礼拝もしていたことでしょう。しかしこのことを神が怒られないわけがありませんでした。神は一人の人、預言者のナタンをダビデの元に遣わし。ダビデの罪を暴きました。この辺りのことはサムエル記下の11〜12章に記されています。ナタンは面と向かって「ダビデ王よ、それはあなたのことだ」と指摘しました。誰も知らないと思っていたダビデでしたが、神の前にはごまかしがきかないことを思い知ったのでしょう。「わたしは主に罪を犯した」と素直に罪を認め、悔い改めます。その後、彼は7日間灰を被り地面にひれ伏して神に祈り、次第に赦しを確信していきますが、そんな中で詠んだのが今日の詩編51編だと言われています。

 王になるまでのダビデ、そして王としてもダビデは優れた信仰者でありました。そんなダビデがなぜこれほどの大きな過ちを犯したのか。繰り返しになりますが、ダビデは旧約の信仰者の代表とも言える人物です。神さまからの寵愛を受け、どんな時にも神さまへの信頼を忘れずに生きた信仰者です。そんな彼が何故このような大罪を犯したのか。

 それは彼が、この時最も勢いの盛んで、順風満帆な中に生きていたからではないでしょうか。彼は長い逃亡生活を終え王となり、破竹の勢いでイスラエル全土を掌握しました。この時イスラエルの国は歴史上最大となったのです。正に飛ぶ鳥を落とす勢いの中にダビデ王はいました。
人はしばしば順境の中にあり、言い換えれば得意の絶頂に在る時に罪を犯すものであります。パウロもコリント教会に宛てた手紙(T)の中で10章12節「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と述べています。自分の力で立てていると思う時が、人にとって最も危ない、危ういときなのです。
ダビデの罪の重さは、人妻との姦淫にだけあるのではありません。それもとても大きな罪なのですが、それだけでなくその罪がばれないようにするために、ウリヤを前線に飛ばして殺しました。人は一つ罪を犯すと、それがばれないようにするために、更に新しい罪を重ねてしまいます。そのようにして私たちはますます罪の泥沼の中に引きずり込まれていきます。罪は罪を生み、悪は悪を産んでいくのです。それが罪の恐ろしさだと言えるでしょう。
人はそれぞれ自分の欲などに引かれ、おびき寄せられて罪を犯してしまいます。しかし犯してしまった罪はどんなに悔やんでも、私たちの力でそれを清くすることはできません。この51編の詩人も、自分の罪を自分の力ではどうすることも出来ないことを感じています。彼は徹底的に神さまの憐れみにすがるしかなかったのです。

 3、4節「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」
11節「わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」
16節「神よ、わたしの救いの神よ、流血の災いからわたしを救いだしてください」
そして9節で「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」と言っています。
ヒソプというのは、イスラエルの道端に生える雑草で、花は香らないのに、葉をちぎると芳しい香りがする草です。元々は、奴隷であったイスラエルの民がエジプトから逃れるために、過ぎ越しの夜に、子羊の血を門に塗るときに用いられたものでした。そしてイエスさまが十字架に着けられた時、海綿に酸いぶどう酒がつけられてイエスさまの口元に差し出された時に用いられたのもヒソプでした。

 今日はこの51編の中から12〜14節を読みました。詩人は「神よ、わたしの内に清い心を創造し」てくださいと願って、そう歌いました。最近何度か新共同訳のあまり良いと思えない点を指摘していましたが、ここの12節は断然新共同訳が良いです。ここでは詩人は神に「清い心の創造」を願っています。口語訳はここを「清い心をつくり」としていますが、これは単につくるではありません。ここで使われている"バーラー"という言葉は、創世記1章1節の「神は天地を創造された」にも用いられており、神の行為にしか用いない言葉です。人間が何かを作り出すというような時には用いません。"バーラー"はそれほど、特別な重さを持った言葉なのです。

 新約聖書でもイエスさまは「心の清い人々は幸いである」とおっしゃっています。つまり、心の清い、というのは、その人の性格とか、人となりが清いというのでなく、神さまによって清くしていただいた、神さまによって清い心を創造していただいた者のことです。人間の努力で作り出されるものではありません。清い心というのは、神さまによって清めていただき、新たにお造りいただかないと実現出来ないものです。
清い心を創造なさることが出来るのは神さまだけです。正に「無からの創造」無から有を呼び出されるのは主なる神さまだけです。この詩人は、この"バーラー"(創造)という言葉を使って、自分の中には良きものは何一つない、しかし無から有を呼び出すように、神さまは私たちに清い心を造り、与えて下さると確信してこのように祈っているのです。そうすれば、罪が緋のように赤くとも、神はそれを雪よりも白くして下さると祈っているのです。

 私たちの赦されざる罪を洗い清め、そして私たちの中に清い心を創造するために、イエスさまは十字架にかかって下さいました。この詩を詠んだ詩人は旧約聖書の時代の人ですから、勿論イエス・キリストの十字架のことは知りませんでした。しかし、聖書は旧約聖書で説かれている救い主、メシアこそが十字架のイエスであることを示しています。そしてそのイエス・キリストが私たちの罪の贖いとして十字架で知を流し死んで下さったことを信じる時に、私たちの中に清い心を創造して下さるのです。この後、新生讃美歌の230番「丘の上に立てる十字架」を讃美しますが、ここで歌われているイエスさまの十字架こそが、私たちに清い心を創造し、私たちをイエスによる清い人へと変えてくださいます。その思いをもってこの後、ご一緒に讃美いたしましょう。
それでは、お祈りをします。






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