「塩と平和」


 マルコ9章49〜50節
 2010年8月15日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。本日は、わが国にとって65回目の終戦、敗戦記念日です。また、今年は日米安保条約50周年の年でもあります。昨年来の沖縄普天間飛行場の移転の問題などから、平和を維持するために必要なものが何であるか、私たち一人ひとりにとっての問題として考えていかねばなりません。イエスさまは、あの山上の説教において「平和を実現する人々は幸いである」とおっしゃいました。このみ言葉に生きる者として、平和についてご一緒に考えていければと思っています。週報の巻頭言に、平和について記しました。読んでみましょう。
真の正義  

 今日は終戦記念日、日本の国が戦争に負けたことの思いをこめると「敗戦記念日」と言うべきなのかもしれません。戦争責任の問題が取り上げられる時には、よく侵略戦争だったか自衛のための戦争であったかということが話題になります。当時の日本をめぐる国際情勢を考えると、確かに自衛のためであった点も否定は出来ないかと思います。しかし、わが国にどのような事情があったかを別にしても、あの戦争において日本が多くの国、特にアジア諸国に対して大きな被害を与えたことを消し去ることは出来ません。わが国も、大きな被害を被ったことは事実ですが、私たちは謙虚に、加害者であったことを受け止めなければならないと思います。
 すべての戦争には、当事者の"事情"がありますが、一方の側のその"事情"は、相手にしてみれば全く不都合なこと、迷惑千万な話でしかありません。そしてその"事情"は往々にして"正義"の名にすりかえられるものです。しかしその"正義"とは、自国にとって都合の良い理由に過ぎず、真の意味での"正義"であろうはずがありません。"真の正義"、それは一方の側にのみ通用するものでは断じてなく、双方にとって"正義"でなければなりません。人間が自分の"事情"でつくり出す"正義"は、真の"正義"にはなりえません。
 また、"正義"の名による戦争など、あろうはずがありません。何故か、真の"正義"は絶対に争わないからです。争いや戦いのあるところに真の"正義"は存在しないからです。真の"正義"とは、互いに愛し合うことでしかなく、愛は争わないからです。
 長野県の上田市の郊外に、一つの美術館があります。長野県には多くの美術館があります。それらの美術館の中で、この上田市の美術館はとても小さなもので、他の美術館のように有名な作家の作品は一つもありません。しかもとても不便なところにある美術館です。しかしここには、連日多くの人たちが訪れます。その美術館の名前は、「無言館」と言います。戦没学生慰霊(霊を慰める)美術館で、戦争中に美術を学んでいた学生たちの作品が展示されています。
 彼らは、在学中や卒業してすぐに、召集され戦死した人たちです。私は未だ訪れていませんが、訪問者はその迫力に圧倒されると言います。鑑賞者が何も言わずに帰っていくという意味と、展示品自体が何も言葉を語らずとも、たくさんのメッセージを雄弁に語ってくれる、そのような意味で、無言館と名づけたと館長は語っています。

 自画像が多いそうですが、中には家族団らんの画や故郷の山や町の風景画もあります。出征する前の日までそれらの画を描いていたそうです。そこに故郷や家族への思いを表しているのです。是非、一度訪れたいものです。
 イエスさまは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」とおっしゃいました。平和は大切だとは誰でも言うことが出来ます。ですが、イエスさまは平和そのものとなって歩まれました。コロサイ信徒への手紙1章19〜20節に「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」とあります。十字架の死を通して平和を表して下さいました。「敵を愛し迫害する者のために祈れ」と教えられ、それを十字架上で実践されました。イエスさまは、自らが死ぬことによって憎しみの連鎖を断ち切られたのです。
 パウロは手紙の中で、キリストの平和こそが私たちが平和を実現する具体的な生き方であることを勧めています。ただ単に平和でないと困るという程度のことではなく、漠然と平和を望むことでもなく、まさしく平和そのものとなって生きることこそが、平和を作り出すことになると言っておられます。
 本日の聖書の箇所には、塩について書かれています。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」塩と平和がどのように関係するというのでしょうか。塩は、そのままでは辛いものですし、塩分の摂りすぎは健康に良くないこともありますが、塩は生命維持にはかかすことが出来ないものでもあります。

 イエスさまの「あなたがたは地の塩である」という有名な言葉があります。塩はただ塩辛くするためだけに使われるのではありません。塩には、殺菌作用や保存作用、そこから宗教的な清めの役割があります。最近ではあまり用いられなくなりましたが、仏式の葬儀では清めの塩が配られたりもします。
 今日の箇所でイエスさまは「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」と命じておられます。口語訳聖書ではここは「あなた方自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに和らぎなさい」とされていました。塩の働きからすると、「和らぎなさい」の方が分かりやすいようにも思います。塩には、和らがせる働きがあるからです。
 ぜんざいを作る時やまた、スイカを食べる時に、塩を加える。そうすると、甘さが引き立って、より甘くなる。塩味が出るよりも、むしろ他の味に溶け込んで、他の味を引き立たせる働きが塩にはあるのです。
 塩は決して主役ではありません。周囲のものを引き立てる働き、奉仕すると言ってもよいのかもしれません。コロサイ書4章6節には「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」ともあります。「塩で味付けされた言葉」、それは単に厳しい言葉ではありません。そうでなく、それは「快い言葉」だと、パウロは述べます。これも口語訳では「いつも塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい」でした。辛らつな言葉でなく、やさしい言葉。快い言葉、やさしい言葉、それこそが、他者との和らぎを生じさせる言葉であるはずです。

 塩の役割、それは他者と和らぐこと、互いに平和に過ごすことにほかなりません。先ほども述べたイエスさまの「あなたがたは地の塩である」は、目立たないけれども無くてはならぬ者という意味に加え、他と和らぐもの、平和のために働くものであるようにとの祈りがあったのではないでしょうか。
 今日のマルコでは「塩に塩気がなくなれば」と書かれています。塩が塩気をなくすことがあるのでしょうか。今回読んだ書物の中には、パレスチナ地方で取れる塩は岩塩で、地質の関係で塩気を失うことがあると説明されていました。せっかくイエスさまから「地の塩だ」と呼ばれていても、互いに平和に過ごすことを忘れ、和らぐ働きをしないならば、塩気は無くなったも同然だと、イエスさまは警告なさっているのです。
 さて、今日のところからもう一つのことを見てまいりましょう。それは今日の最初の「人は皆、火で塩味を付けられる」とあることです。これはどういう意味なのでしょうか。料理をするのに、煮たり、焼いたりして火を用いて調理するのに塩味をつけることでしょうか。また、塩を精製する時に、天日に干したり、大きな釜で何時間も煮詰めることもしますから、そういうことを指しているのか。そういうこともあるのでしょうが、聖書において火は、具体的な迫害や艱難の意味があります。マルコはここで、極めて具体的に襲いかかってくる迫害や艱難の中で、あなたがたの信仰が精製されると述べているようです。イエスさまは十字架の道を歩まれる中で、私たちへの愛を表して下さいました。そして私たちは、私たちの国が、65年前の敗戦という大きな艱難によって平和の尊さを教えられたことを忘れてはなりません。

 私たちは、あの敗戦と言う試練を通して、平和の大切さを骨の髄まで教えられました。戦争に勝っている時には、一人ひとりの悲しみや痛みはかき消されていました。兵役を拒否するものは非国民とされ、戦争は嫌だ、出征拒否などは許されない時代でした。ただ、黙ってその思いを絵筆に託すしかない時代だったのです。そして、私たちは沖縄戦、広島長崎の原爆、それだけでなく日本各地の空襲などを通して敗戦に至り、初めて本当に大切なことが何であるかを気づかされました。私たち日本の国は、あの火の試練である経験を通して、塩を自分たちの内側に持つことが出来たのです。
 でもどうも、戦後65年が経って、その塩気を失いつつあるように感じます。いったい、何によって塩に味付けるのか、塩味を取り戻そうとするのか。抑止力によっては、塩味は保つことは出来ないではないでしょうか。

 イエスさまは、私たちの罪の身代わりとなって、贖いとして、十字架について死んで下さいました。私たちの内側には愛はありません。また、塩味はすぐに失われてしまいます。イエスさまの十字架と言う悲劇、人間の最も恐ろしい苦しみを主が担って下さることによって、私たちは愛を知ったのです。これこそ、イエスさまご自身が地の塩となり、他者と和らぎ平和に過ごすために行なってくださったことです。私たちは、そのイエスさまの十字架を無にしてはなりません。イエスさまが命を献げてまで、保って下さった塩味を内側に保ちつづけなければなりません。お祈りをしましょう。





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