皆さん、お帰りなさい。聖書を読んだことのない方でも、創世記という名前、またそこに天地創造の物語が書かれていることを知らない方はおられないのではないでしょうか。今日は旧約聖書の一番最初、その創世記の始まりの言葉から見てまいりたいと思います。 聖書は神の言葉だと言われます。しかし、書いたのは神さまではありません、人間です。ですが、創世記を書いたのは誰だかわかりません。その元になっているのは、イスラエル民族に語り伝えられた伝承です。それをこういう形に纏めたのは、紀元前6〜5世紀頃だと考えられています。この後11章になって登場する有名なアブラハムが生きたのはだいたい紀元前2000年頃だと言われていますが、そうだとすると、書かれた時代より1000年以上も前のことになります。まして今日の天地創造物語になると、実際にそのことが行なわれた時代と書かれた時代では大きな隔たりがあります。誰か見た人が書いたのではありません。これは目撃証言ではありません。これは信仰から出た証言です。一種の信仰告白だとも言えます。だから、進化論や考古学的な証拠と照らし合わせるならズレや矛盾があるように思えます。しかし、この天地創造物語は宇宙の起源やその成り立ちの過程を科学的に説明しようとしているのではありませんから矛盾と見えることがあるから、真実ではないとは言えません。科学的な探求では絶対に分からないことがあります。ここに記されているのは、宇宙と人間が造られ、生かされている意味と目的です。宇宙は偶然出来たのではありません。「初めに、神は天地を創造された」世界と人間は自然界の活動の中で偶然に生まれたのではなく神さまがご自身の意思と責任をもって創造されたと述べているのです。この1章1節の言葉は、この後に書かれている創造のみ業の全体を要約する重要な証言であります。それは、主役は神さまだ、という力強い宣言であります。自然の法則が世界を動かしているのでは断じてない。創造主である神さまこそが世界を生み出し、世界と人間を支配しておられると言っているのです。
詳しく見てまいりましょう。「初めに」、これは、単に物事の開始の時という時間的な意味ではなく、全ての起源を指しています。だから、<昔々>とか<何億年前に>ということではなく、「根本的・根源的に言えば」というような意味です。 次の「神」は、これに用いられている言葉の"エロヒーム"は複数形です。だから直訳すると、神々となります。ただ一人のお方である神をなぜこういうか、原文のヘブル語では、複数形で尊厳を表わすのだと言われています。 「天地」この「天」というのは、天体のことだけを指すのではなく、人間には知られていないあずかり知らない世界のことです。神さまがおられる場所も「天」です。「地」は、私たちが生活している領域のことです。ですから「天地」とは、「私たちが知っているものも知らないものも含めた全てのもの」という意味です。そこには勿論、人間も含まれています。
先々週の詩編の中でも申しましたが、「創造された」というヘブル語の"バーラー"は、神さまにしか使わない動詞です。人が何かを作ったという時には用いない言葉です。何か材料を用いてではなく、無から有を創造なさったのです。神さまの意思と力でもって、造られた創造されたのです。更に言うと、何億年か何百億年か前に創造されたということだけでなく、今もこれからも、創造者であられ続けるということであります。神さまは今も、新しいものを造り、新しい命を生み出し、新しい出来事を起こしておられるのです。
2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」これは地が創造される前の状態が記されています。「混沌」とは、人や生物が生きられないような荒涼・茫漠とした様子です。 「闇」とは、光の反対、命が育たない死の世界、何も希望の見えない状態です。「深淵」とは底なしの深みです。救いようのない絶望の世界です。しかし、そこに「神の霊」が「動」くのです。この「霊」という言葉は、「息」「風」とも訳せる言葉です。神さまのご臨在と神さまが与えられる命と力のことを言っていると考えてよいでしょう。暗闇の死の世界に、神さまが働かれる。底なしの深淵の上を神さまの霊が覆うのです。創造のみ業が始まる瞬間です。神さまが全てを掌握されます。闇も死も底なしの深淵も、神さまの御手の中にあるのです。
最初にも述べましたように、この創造の出来事は、これが書かれたよりもはるか昔の出来事です。この2節の闇と深淵の状態は克服されていることのはずです。それを何故何億年も経って書いたのか。それはこの創世記が書かれた時代のことを考えねばなりません。イスラエルの国にとって紀元6〜5世紀、それは国が滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れ去られ頃、言ってみれば「混沌」の状態にあった時代だったのです。創世記はそのような時代に書かれました。2節に記されている闇と深淵ははるか昔に過ぎ去った状況ではなかったのです。その時目の前にある現実だったのです。聖書は、そういう現実の中で、神さまが創造の御業を始められたことを語るのであります。混沌と闇と深淵にある現実の前で「神の霊が水の面を動いていた」そのような現実の中で、神さまが働き始められたことを語るのであります。
3節「神は言われた。『光あれ』こうして光があった。」第一日目の創造です。神さまは最初に、光を創造されました。この光とはどうやら太陽のことではなさそうです。太陽や月や星は、16節以降に記されています。それに先立って、光そのものを造られ、闇が覆っていた世界をご支配なさったのです。光はモノを見えるようにします。光によって命は育まれます。本物とそうでないものを見分けることが出来ます。光は私たちの心を明るくし、私たちに元気を与えてくれます。そんな光を、最初に造られた、創造されたのです。何を用いて造られたのか。神さまは何かを用いてされたのではありません。ただ「光あれ」とおっしゃると、光が出来たのです。神さまの「語り」によって事柄が起こされた。この後の創造のみ業は、全て、神さまの語り、言葉によってなされます。神さまの言葉には、御心とご人格、そして神さまの特性である愛が込められています。また、私たちは神さまの言葉によって、神さまを知ることが出来ます。
4節「神は光を見て、良しとされた」神様はご自分のなさった光の創造の業をご覧になって、満足されたのです。この後の創造の全てに対してもそうだった書かれています。創造なさった世界には失敗も不具合もないということです。 ではなぜ、今なお、世界には混沌と闇があるのでしょうか。今なお、悪が存在し病気や災害、戦争があるのか。今日は詳しく述べることはしませんが、それは3章に記されています。アダムとエバが蛇に誘惑されて罪を犯したからです。問題は神さまの側にあるのでなく、人間の側にあります。 4節後半から5節にかけて「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。」 神さまは光を創造されましたが、それでもって闇を一掃されたのではありませんでした。神さまは闇を創造されたのではありませんが、闇をも存続されたのであります。闇の存在を認められたのです。闇自体は悪いものではないでしょう。しかし、闇は人間の活動を妨げます。正しいことと悪いことの区別を見えなくします。でもなぜ、神さまは闇を残されたのか、その訳を私たちは知ることは出来ませんが、私たちは光と闇とが存在する世界に生かされることになりました。私たちの罪を闇のせいにすることは出来ません。光と闇は、どちらも必要と判断されて存在させられたのでしょう。
ここで、この5節の順番に注目しなければなりません。闇の後に光、夕べの後に朝があるのです。闇の領域は限定されるのです。光が闇よりも優位に置かれています。闇が光を凌駕することはないのです。闇で終わることはないのです。闇は光に勝つことをここでは示しています。 最後にもう一度、私たちは創造のみ業を聴く、読む、意味について考えてみたいと思います。聖書はただ、私たちとは無関係の太古の歴史について、神話のように語っているのではありません。イスラエルの民は捕囚という現実の中で、また捕囚後の混沌の中で、これらの言葉が与えられたのです。そしてそれは今の私たちにとっても同様です。私たちは自分がこの世界の支配者であると思ってしまい、自分たちの知恵や考えによってこの世界を変え、支配しようとしてしまいます。しかしその奢った思いこそが、この世界に争いと罪を生じさせてしまいます。その中で聖書は「初めに、神は天地を創造された」と語って、世界を創造し、それを動かしているのは神さまであり、神さまの御心によって全てを支配していることを語ります。混沌は克服され、闇に光が射し込む。そのことを、私たちは再び、いや何度でも知り、そのことを確認することが出来ます。祈りましょう。
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