「信頼の祈り」


 詩編58編1〜12節
 2010年8月29日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



 皆さん、お帰りなさい。さて、本日の聖書箇所は詩編58編です。私は、この詩編を初めて読んだ時はとても驚きました。皆さんの中にもそう思われた方もおられることだと思います。こんな詩が聖書に載っていて良いのだろかとも思いました。はっきり言ってついていけないというか、間違いではないかと思ったほどでした。
 しかし、聖書を読んで教えられてきたことですが、すんなり心に入ってくるみ言葉よりも、ひっかかりを感じたり、受け入れらないところを読んでいく中で、示されることは、とても大切だと思うのです。旧約聖書がなければ新約聖書がないように、十字架がなければ復活がないように、律法がなければ福音がないように、私たちが躓くところのすぐそばに救いがあるのではないでしょうか。

 驚きを通り越してこんな祈りをする詩人に対して躓きを感じるほどの言葉が続きます。7節「彼らの口から葉を抜き去ってくださるように」
8節「彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい」まだまだ9節「なめくじのように溶け」そして極めつけは9節の「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」ある聖書訳では「溶けながら歩くなめくじさながらに、太陽を視ない流産の子のように」となっています。今まではこの9節が最たるものと思っていましたが、10節11節も相当です。「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。」「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」悪人が滅びるのを見て心の中で満足するだけでなく、血で足を洗うというのです。国民性や風土の違いはあるのでしょうが、ここまできたら悪趣味というか、どう考えてもやりすぎに思えてしまいます。

 詩人の前には、不正な心をもって不法を働く者がいたようです。その者に対しての報復を神に祈っている。これほどの言葉ですから、私たちはどうしてもこの7〜11節の言葉に目が行ってしまいますが、この詩編の主題はこれらの言葉にはありません。この詩編の中心は、最後の12節です。「人は言う。『神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。』この詩は、神に従う者のことを神はお見捨てになることはない、神は確実におられ、きちんと裁いて下さる、というこの詩人の信頼の祈りなのです。

 しかしそのように聞いても、私たちの心はすっきりしないのではないでしょうか。詩人の目には、不正に満ちた心で振舞っている者たちが居る。彼らは母の胎にある時から汚らわしく、人々を欺き蛇のような毒をもっており、耳の聞こえないコブラがいるのかは知りませんが、どんな言葉も彼らには通用しない。それほど邪悪な存在に思えたのでしょう。私たちもそこまでの思いにはならずとも、どうしてこんな不正がまかり通るのか、また悪人がのうのうとのさばっている現実があるのかと、その理不尽さに苦しむのではないでしょうか。しかし、イエスさまは「敵を愛し迫害する者のために祈れ」とおっしゃったではないか。確かに新約と旧約では、イエスさまの救いを知っているかどうかの違いがありますし、それほどまでの罪を犯す者、その存在から直接的に被害を受けているのかもしれませんが、そうだからと言って、その相手のことを「溶けながら歩くなめくじのようになれ」とか「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」と祈ってよいものなのでしょうか。皆さんいかがですか。

 今回、この箇所から語るにあたって、この58章について書かれている書物や文章を読みました。そこには、だいたい「このような祈りはすべきではない」と書かれていました。立ち向かってくる敵、その敵がどんなに不法に満ち、時には悪辣なほどの手を使って私たちを苦しめる相手であったとしても、私たちの側にも負い目があるのだから、こうした祈りをすることは出来ないのだと。ここでの負い目とは、罪と言ってもよいし、人間の落ち度と言ってもよいのですが、誰の前にも完全に負い目のない人間などはいない。完全に負い目のない人でなければ、このような報復の祈り、復讐の祈りは出来ないし、すべきではない。復讐や報復はそのように罪なきお方、イエスさまにしか出来ないことだ。だから復讐は神さまに任さないといけない。確かにその通りです。どんなに卑劣な相手であっても、その者に対して復讐しても、それでは憎しみの連鎖が残るだけです。やられたらやり返すでは、本当の問題の解決にはなりませんし、平和は実現しません。しかし、それでも私の心はすっきりしないのです。

 詩編を読んでいてすぐに気づかされることがあります。詩編とは神さまへの思いを詠んだ詩なのですから、どんなに素晴らしい言葉、神さまをたたえたり、神への感謝の思いを詠ったものかと思って読むと、豈図らんや、今日の58編ほどの激しい言葉はそうは多くないのですが、嘆きや敵に対する報復を求める言葉の多いことです。それは詩編だけに限ったことではありません。聖書、特に旧約聖書は、イスラエルの国民の罪が歴史が繰り返し記されている。国としての罪も何も蓋をしない、王様の罪も洗いざらいそのままで書かれている。それが旧約聖書です。詩編においては、実際には、嘆きの歌が最も多いそうです。そのことにも私たちは驚かされるし、今日の58編ほどの言葉ではなくとも、そこには敵への報復を神に願っているのです。58編のこの辺りには特に嘆きの詩が多いので、ニ、三見ていきましょう。

 最初に56編、889ページです。2〜8編「神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ陥れようとする者が絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ、多くの者がわたしに戦いを挑みます。(6節)わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを起こし、命を奪おうとして後をうかがいます。彼らの逃れ場は偶像にすぎません。神よ、怒りを発し、諸国の民を屈服させてください。」これなどは読みようによっては、自分が苦しいことをぼやいているとも読めます。
 続いて59編2節から「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し、流血の罪を犯す者から救ってください。ご覧ください、主よ、力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく悪事をはたらいたこともないわたしを打ち破ろうとして身構えています。(13節)口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。御怒りによって彼らを絶やし、絶やして、ひとりも残さないでください。そのとき、人は知るでしょう。神はヤコブを支配する方、地の果てまでも支配する方であることを。セラ」

 これはほんの一部です。そして実際は、最後に読んだ59編の14節のように、神をたたえる言葉や感謝の祈りで終わっているものも多くあります。しかし、私たちの祈りはどうなのでしょうか。いや、祈りというよりも、心の中に起こる思いはどんなのでしょうか。「アイツさえいなければいいのに」と思う相手に出会ったことのない人はおられないのではないでしょうか。「ナメクジのようにどろどろに解けてしまえ」とまでは思わなくとも、その相手や敵の不幸を願ったことのない人もおそらくおられないのではないでしょうか。
 先ほども述べましたように、報復は真の解決にはなりません。私たちが不法を行なってのさばっている者や自分の敵に対して、自分の心にある赤裸々な思いに従って行動することは神さまの喜ばれることではありませんし、大変なことになってしまいます。犯罪を犯すことになります。詩編は神さまの言葉ではありません。それは人間の祈りです。神さまは私たちの心にあるありのままの祈りをそのままで受け入れて下さいます。そして詩編のみ言葉が人の心を捉えるのは、2000年以上の時を超えて、私たちが愛唱してきたのは、そのように正直な心の中にある赤裸々な思いが綴られているからです。

 私たちの心に浮かぶ正直な思いや願いは神さまにぶつけて構わないのです。そのことを無理に押さえつけようとしてしまうことの方が危険です。ただ、こんな祈りは人前ではすべきではないでしょう。祈りには二通りあって、公けの祈りと個人の祈り。公けの祈りでは個人的な不満や嘆きはひかえなければなりません。しかし、神さまの前で一人の信仰者として出る時には、自分の思いを無理におさえつけて、心にもないおべんちゃらのような言葉で祈るでなく、58編の詩人のような赤裸々なありのままの言葉で祈って構わないのです。

 それも罪なのかもしれません。しかし、私たちはどんなに祈っても、どんなに礼拝しても、どんなに長く神さまを信じて歩んで行っても罪が無くなることはありません。また、弱さがなくなることもありません。私たちは弱いままでよいのです。神さまが私たちに求めておられるのは、弱いままで神さまにぶつかっていくこと、神さまにゆだねることです。何故、そう言えるのか。その根拠こそがイエスさまの十字架です。イエスさまは、ただ自分の信念を貫いて死なれたのではありません。私たちの弱さや罪や病さえも背負いこむため、ひっかぶるために十字架で命を献げられたからです。そのイエスさまが私たちの恨みや妬みやぼやきも不満も、それらを全部引き受けるために十字架で死なれたのです。

 私にとって、詩編58編は衝撃でした。それはあまり良い意味ではなく、この言葉が聖書にあることに疑問を感じたほどでした。しかし、同時に思ったのです。自分はここまでの祈りをしたことがないと。この祈りは神さまに対しての心からの信頼がないと出来ないのではないかと。詩人には確信があったのです。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる」。彼は自分が報復するのでなく、復讐するのでなく、その裁きを神さまに信頼して委ねているのです。お祈りします。





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