「光あれ!」 


 創世記1章1〜5節
 2011年1月2日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。新しき年も主の下にあって共に歩んでいけるように願います。昨日は元旦礼拝、そして今日は新年最初の主の日の礼拝です。さて、その最初の礼拝でどこを読もうかと考え祈っている中で、示されたのは創世記1章1〜5節でした。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と2節にあります。「混沌」という言葉は、以前の口語訳では「形なく、むなしく」とされていました。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もなかった。まさに底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界だったというのです。聖書は、この世界の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しています。
そのような混沌と闇の世界に対して神は、「光あれ」と語りかけられました。こうして、光があった。この「光あれ」によって、全く新しいことが始まりました。闇が退き、一つ一つの形が生まれたというのです。そこに、一つ一つの秩序が生まれるのです。「神は言われた」「そのようになった」が繰り返される内に、混沌の世界が神の栄光の表現である神の世界となっていくのです。
 これは世界の初めについての物語です。しかし、聖書の言葉が本当に語ろうとしているのは、単に《昔々のお話》ではありません。この物語を読んでいる人に、それがいつの時代の人であっても、その人生に直接関わっている話です。なぜなら、ここに記されている「天と地」をどう見るか、特に「地」であるこの世界をどう見るかによって、その人の生き方は定まってくるからです。「地は混沌であり暗闇であった。そこに神は光あれと言われた。すると光があった」 ここには、私たちが生きている「地」をどう見るか、この目に見える世界をどう見るかについての聖書の主張が記されているのです。
1節の「初めに、神は天と地を創造された」は、この世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのは神だ、ということを教えています。神の発せられる言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかありませんでした。それは、神から離れてしまうならば、この世界は初めの混沌と暗黒に戻らざるを得ないのだ、ということです。神が秩序を与え、意味を与えたからです。神から離れてしまうならば、この世界は、最初に書かれていたように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状態に戻るしかないのです。
これを読む現代の多くの人にとっては、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あまりにも素朴な物語に聞こえるかもしれません。しかし、「地は混沌であった」という言葉は、私たち現代人にとっては、無縁のことなのでしょうか。否、むしろ「混沌」という言葉こそが、しばしば私たち個人の人生にせよ、家庭生活にせよ、社会のありようにせよ、その現実を言い表すのに最も相応しい言葉となっているように思えます。実際私たちは、「地は混沌であった」という言葉を、それこそ文字通り全地について、すなわち地球規模において目にし始めているのではないでしょうか。「闇が深淵の面にあり」、もはや這い上がることのできない深い淵、その上をまったく光のない暗闇が覆っている世界。それはまさに、私たちが目にしている世界を描写する最も適切な言葉ではないでしょうか。この天地が造られた時の「混沌」は、この現代にも当てはまり、神を見失った世界の有様は、「混沌」と「闇」という言葉をもってしか表現され得ないように思えます。
そのように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という言葉を自分自身との関わりにおいて読み、天地創造の物語がまさに《自分たちの物語》として読む時に、3節の言葉が私たちにとって大きな意味を持ってきます。その混沌と闇の中に、「光あれ」という神の言葉が響き渡ります。その「光あれ」という言葉が、私たちにも力強く迫り来る言葉となるのです。
 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこから神の御業が始まります。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出されていくのです。
この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混沌に戻らざるを得ません。しかし、この話には、さらに大きなメッセージが示されています。それは「神が初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのだから、混沌となった世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできになるはずだ」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを語る物語でもあるのです。
 あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世界を、神はそのまま捨てて置かれませんでした。そうなのですから、今のこの世界も、この国も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。神さまは、私たちの家庭も、私たちの人生も、混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。神が語られるならば、神が「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。光が来るなら、暗闇は逃げていきます。そこには新しい秩序が生まれ、新しい意味が生まれるのです。新しい創造がそこで起こります。そこにこそ、私たちの希望もあるのです。
 私たちは昨年末にいつものようにクリスマスをお祝いし、ご一緒に礼拝を献げました。クリスマスとは、その新しい創造の神さまの業そのものであります。そしてそのイエスさまは、この世界に向かって、再び、決定的な仕方で、「光あれ」と語られています。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。新約聖書163ページです。ヨハネによる福音書1章です。
1〜5節 9〜14節
 この箇所が創世記の天地創造物語を念頭に置いて書かれていることは、明らかでしょう。ここでイエスさまは「言」と呼ばれています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と語られています。言は人間となって、ナザレのイエスという人間として、この地上を歩まれました。すなわち、神さまはイエスさまをこの地上に送り込むことで、決定的な仕方で語られたのです。父なる神と一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背いて混沌となった世界に来られました。その言の内には命がありました。神の命がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。そうなのです、あの時と同じ「光」です。いわば、神さまはあの初めの時と同じように、もう一度「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。
そして、神が「光あれ」と語られたのですから、既にこの地上に光がもたらされています。イエスさまはヨハネ8:12で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃいました。光は既に与えられているのです。ですから、イエスさまと共にあるならば、その人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はないのです。
 「光あれ」とは、単にこの世界を明るくしたということではありません。それは、形なくむなしく秩序のない世界に、神さまの創造の業をおこされたということです。世界は、神無しでは、そのような混沌に陥るかもしれません。その混沌の世界に一つの秩序の神の御心を注ぎ込まねばならないのです。そしてそれは、地であるこの世界だけではありません。私たちも神を抜きにして歩んでいくならば、形なくむなしい混沌なる存在へと陥ってしまうのです。そこに「光あれ」と言って、まことの光なるイエスさまが来て下さったのです。そのイエスさまを迎え入れて歩んでいきましょう。



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