「あなたはどこにいるのか」 


 創世記3章1〜13節
 2011年1月9日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。さて、年が明けてから創世記を読んでおりますが、私たちの信仰は聖書に基づいています。言うまでもないことでしょうが、聖書は旧約聖書と新約聖書からなっております。旧約聖書を一言で説明すらならば、イエスさまがお生まれになる前の時代で「救い主イエス・キリストが来られるよ」ということが書かれており、新約聖書はイエスさまがお生まれになられた後「救い主イエス・キリストが来られた」ことが記されております。そしてこれもまた皆さんにとっても自明のことでしょうが、私たちキリスト教の信仰は、この旧新約聖書を基にしている。しかしいかがでしょうか、どうしても新約聖書に傾いていると言えなくはないのではないでしょうか。それは皆さんだけのことではない、牧師が選ぶ礼拝の聖書箇所においても、そのことが当てはまるように思えます。旧約聖書こそは新約聖書の土台とも言えるものであります。土台のしっかりしていない建造物は不安定です。それと同じで、新約聖書にだけ頼っている信仰は、とても薄っぺらで脆いものになってしまいます。創世記は50章まであり、とても長い書簡ですから、すべてを読んでいくことはできません。全部を読んでいけないのは残念ですが、3月まで特別の時を除いて、旧約聖書をご一緒に読んでいければと思っています。
さて、先週は1章1〜5節でしたが、本日与えられたのは3章1〜13節です。この3章には、アダムとエバが罪を犯してエデンの園から追放されたいわゆる「失楽園」の物語が記されています。すなわち神さまが「決して食べてはならない」とおっしゃった"善悪を知る木"の実を食べてしまったことによります。6節には「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」とあります。実際は、蛇が女を誘惑し食べ、そして一緒にいた男に渡して男も食べたのです。すると、彼らの目が開け、自分たちが裸であることに気づいたのです。
今日は特に7節以下を中心にご一緒に聖書に聞いてまいりましょう。8節には「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」とあります。彼らが木の実を食べたこと自体が大きな問題なのですが、その結果のこの8節の二人の取った行動と、犯した罪を咎められたことに対しての答えにこそ、人間の罪の本質が表われているように思えます。
 この創世記3章に記された最初の人間であるアダムと女の罪の物語は、とても有名なものです。これが人間の原罪だとされています。しかし私たちは、これを読み間違ってはなりません。確かに最初に罪を犯して、神さまとの関係において罪をもたらしたのは彼ら二人なのですが、その二人の犯した罪が遺伝するのだから人間はみな罪びとなのだと、無自覚的にとらえてしまってはなりません。そうすると、人間のDNAの中に彼らの二人の罪の遺伝子が入り込んだのだ、というような認識に陥りかねないからです。今を生きる私たち自身が、アダムと女の末として、このときの二人と同じ罪を犯していないかを深く吟味しなければなりません。
 罪を犯した後、二人は何を見たのでしょうか。先ほど触れたように、彼らは自分たちが裸であることを知ったのです。蛇が言ったように、彼らの目が開けました。しかしその目が開けることで彼らが知ったのは、自分たちが裸であることでした。2章の25節にあるように、初めから彼らは裸だったのです。しかし恥ずかしくはなかった。それが園の木を食べた後には、裸であることが恥ずかしくなり、いちじくの葉で腰を覆ったのです。これが隠し事の始まりでした。
8節「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあります。その
音を聞いたアダムと女は、神の顔を避けて園の木に隠れました。この時まで、二人、特にアダムは神さまとの深い交わりの中にいました。神さまの顔を避けることはなかったのです。彼は、神さまとの直接的な、顔と顔とを合わせる交わりの中にいたのです。それが「神のように善悪を知るものとなること」を願って木の実を食べた後では、神さまとの交わりを避けるようになったのです。ここに罪があります。
 そんな彼のことを、主なる神は呼ばれます、「どこにいるのか」と。神さまのことですから、人の居所が分からなかったために呼ばれたのでないことは明らかです。これは神さまが、人がご自分との関係がどのようなものであるかを捉えられるための呼びかけです。
 彼は答えました、10節「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」罪びとの応答は、罪を認め告白することにおいて、いつも舌足らずです。どこに隠れているのか、神さまの目からは明らかであることは、彼にも分かっていたことだと思います。しかしここで神に告げるべきは、禁断の木の実を食べたことであるのに、彼は身を隠したことと裸であることしか告げていません。罪とは、悪や悲惨ではありません。神さまとの関係に生じた何かが罪の本質です。
 自分がしでかした行動も問題ではあります。しかしその犯した行動に対して、その後にどのようにふるまうかが、私たちには問われているのです。神は私たちが何をしでかしたかは、聞くまでもなくお見通しです。神は私たちをロボットとしてお造りになったのではなく、私たちに自由を与えて下さいました。そして、その犯した行動に対してどのように振る舞うか、どの対処をするかを見ておられるのです。裸であることをいちじくの葉で覆おうとしたのは、互いの相手に対しての恥ではなく、神に対しての恥です。2章において恥ずかしくなかった自分の有り様が、ここにおいて身を隠そうとするに至ってしまったのです。
 「食べるなと命じた木から食べたのか」そう問い質されて初めて、アダムは、自分が食べたことを認めます。しかしこの時も、言い訳をしています。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので」と付け加えています。ここにも罪の本質が表われています。それは責任転嫁です。自分が食べたのは女が与えたからだというのです。女も同じです。「蛇がだましたから、食べてしまった」。自分の責任ではない、「女が与えたから」「蛇がだましたから」
 アダムはさらに「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と言っています。私にあの女を与えたのはあなただ、悪いのはあなただ、というのです。私たちもすぐに、自分の罪を認めようとせずに、責任転嫁をしてしまいます。人間は罪を犯してしまうものです。それは開き直ってのことではなく、自分では意識していなくとも、それが周囲の人の迷惑となったり、苦しみ悩みとなることがあるからです。しかし重要なことは、それを自分の責任とするかです。この責任転嫁こそが、罪の本質だと言えるのです。
 罪を犯したアダムに、そして私たちに、神さまは呼ばれます。「あなたはどこにいるのか」と。これは自分の居る場所を尋ねておられるのではありません。それは、神さまとの関係を問うておられるのです。私たちはどこに神さまとの関係において、どこにいるのか、どのような関係に立っているのでしょうか。お祈りをいたします。




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