「カインの末裔」 


 創世記4章1〜26節
 2011年1月16日
 高知伊勢崎キリスト教会 牧師 平林稔



皆さん、お帰りなさい。今年に入って創世記を読んでおりますが、今日で3回目です。本日の箇所は、創世記4章のカインとアベルの物語です。聖書、特に創世記には兄弟の物語がいくつか登場します。エサウとヤコブ、そして後半のヨセフと兄たちなどですが、今日のカインとアベルの話しはその最初のものであります。兄弟というのは、それ自体は祝福と喜びの事柄でありますが、と同時に一つこじれるととても厄介なものともなります。身内同士の争い、骨肉の争いなどと申しますが、それは恵みであると同時に、兄弟関係、これは当然姉妹を含めてのことですが、兄弟であることは私たちにとって大きな試練ともなるものであります。
このカインとアベルの物語は、今日のタイトルにもしましたが、明治の小説家の有島武郎も同名の小説を書いております。人類最初の殺人事件でありますが、この箇所は、道徳的な観点から読むのは相応しくないと思います。ここにおいては、兄弟殺しという事柄自体については、詳しく述べておりません。どのような仕方で殺人が行われたのかについては、触れていないからです。ただ8節に「カインは弟ヨベルを襲って殺した」と記すのみです。この物語の語り手が重要視しているは、人が罪を犯すこと、犯した罪によってその本人がどのように蝕まれていくかということ、そして神との関係です。
先週は、アダムと女が、神から「取って食べるな」と命じられていた園の中央の木の実を食べた箇所を読みましたが、そこにおいてもそうであったように、罪を犯したこと自体も問題なのですが、それと同時にその後、犯した罪に対してどのような態度をとるか、神さまとどのように向き合うか、それこそがここにおいて記されているのです。
罪を犯した結果エデンの園を追放されたアダムとエバは、二人の子ども、長男はカイン、次男はアベルを授かります。カインという名前は、「得る、造り出す」という動詞に由来します。そこから、カインとは、喜び祝われた者を意味することからも、命の可能性が感じられます。一方、アベルは「空気」や「無」という意味です。それからも、長男であることもあり、カインの方に神さまの祝福が保証されていることが分かります。
カインは土を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となり、それぞれが神さまへの献げものをしました。しかし、主はアベルとその献げものに目を留められましたが、カインとその献げものには目を留められなかったのです。このことが、この物語を読む者に対して、一つの疑問を投げかけます。「なぜカインの献げものを、主は喜ばれなかったのか」と。しかし、聖書はその理由をはっきりとは語っていません。よく説明されることに、カインが献げたのが単に「土の実りの物」だったのに対して、アベルが「羊の群れの中から肥えた初子」を献げたことが挙げられます。そのようにアベルが良い物を献げたことを神が認めたであろうことは疑いないとは思いますが、ここには、カインの献げ物に対しての批判の言葉は記されてはいません。神が何故、カインの献げものを顧みられなかったか、聖書はその明確な理由を述べてはいないのです。そして、そのことが、私たちと神さまとの関係を捉えるのに、とても重要な要素になると思われます。神さまの御心は私たちには分からないということです。これは当たり前のことだとも言えるのですが、私たちはそのことを見誤ってしまいがちなのではないでしょうか。被造物であり有限な存在である私たちが、造り主であり無限な存在である神さまの御心の全てを知ることなどは出来ないからです。
 イザヤ書55章9節(1153ページ)「天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」この「わたし」は主なる神のことで、「あなたたち」が私たち人間のことです。
 新約聖書に登場するファリサイ派や律法学者のことを、イエスさまがなぜ批判されたのか、それは彼らは、自分たちこそは神さまの御心を全て知っていると思ってしまったことです。イエスさまはその間違い、傲慢の罪を指摘されたのです。
 私たち人間にとって神さまとは、私たちを支え守り導いて下さるお方であります。しかしそこにおいて、私たちが決して忘れてはならないことがあります。それは、神さまは私たちにとって絶対他者であるということです。私たちがどんなに努力して心を尽くしても、私たちは造り主なる神にはなれないし、先ほどのイザヤ書の言葉にあったように、神さまは私たちを超える絶対者であられ、神さまの主権の元で、私たちを支え守り導かれるお方であるということです。その意味において、カインは大きな間違いを犯したのです。それは、弟アベルを殺したことだけではありません。カインにとって、何故自分の献げ物に目をとめられなかったのか、それは彼には納得がいかなかったことでしょう。「どうして」「なんで」という気持ちに苛まれたことでしょう。「弟の献げものは、この点でよかったが、お前にはこれこれが欠けていた」とでも説明されれば、納得がいったかもしれません。しかしそれがなかった。これを読む私たちからしても、カインに同情的な思いを抱かされるほどです。しかし、カインの間違いは、その神さまの決定に対しての応答にあります。カインは神さまの決定を彼の方で、自分の感情や思いで裁いてしまっているのです。神さまの決定の正しさや真偽を問うのでなく、絶対者である神さまのなさった答えに対して、自分を省みるのでなく、その決定に対して「激しく怒って顔を伏せ」てしまったのです。
 献げ物に目をとめられなかったカインに、主の言葉が与えられます。「どうして、怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないのか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」神さまはこのようにおっしゃいました。実はここの解釈はなかなか難しいのですが、あえて意訳させていただきますと「自らの良心にやましいことがなければ、落胆しなくてよい。もし良心に咎めることがあるなら、お前のその自然な感情を自分でコントロールせよ。ただその感情はお前を罪へと巻き込んでいく」献げものを持って行った段階において、カインの心にやましさがあったのかどうか、それは記されていないので分かりません。しかしカインは自分の感情のままにふるまったのです。
 私たちの現実はどうでしょうか。因果関係が分からずに、試練や災難に巻き込まれることが多々あります。どうしてこのような苦しみ悲しみが自分に襲い掛かるのか、いったい自分が何をしたというのかという現実です。周囲を見渡してみても、他の人を見るならば、自分よりも正しくも立派でもない、でもそんな人が自分よりも幸せに暮らしている、ということがあるのではないでしょうか。何故自分だけがこのような目に遭わなければならないというのか。地震などの災害を考えれば考えやすいと思います。神さまはなぜあのような災害が起こることをお許しになるのか。愛の神さまがどうして、世界はそのような不条理に満ちています。しかしそんな不条理を経験すること、また目にし耳にするときに、私たちと神さまとの関係が問われるのです。この話しで私たちが最も聞くべきポイントは、殺人それ自体ではなく、カインの殺人に至る心なのです。
 9〜16節は「カインの裁判」とも言われています。「お前の弟アベルはどこにいるのか」と主は呼ばわります。全知全能の神さまからすると、そんなことは聞かなくともご存知です。先週のアダムに対して「どこにいるのか」と問われたのと同様に、これもカインが自分の罪にどのように向き合うか、言い換えるならば、神さまに対して彼がどのように向き合うのかに対しての問いかけです。それは、罪を犯した者に対しての悔い改めの促しの言葉だと言えるでしょう。
 結果的にカインは、さ迷い人として追放されることになります。アダムと女がエデンから追放されたことを読んだ翌週に、彼らの長男が殺人を犯し、同じく追放されてしまう。これが人間の現実なのだ、と聖書は語ります。ある注解者は、この追放されたカインのことを「神の選びの民から外れたという意味で、最初の異邦人だ」と言っています。私たちはすぐに、神の選びから外れてしまう存在なのです。
 しかし、驚くべきことは、この後の神さまのなさりようです。選びの民から外れた、罪を犯した、しかも殺人という神の似姿としての人間を殺すという罪の最たるものに対しての、神さまの人との関わりは、私たちの想像をはるかに超えるものであります。
 13節「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負い切れません。今日あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう。』主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ、7倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者が誰も彼を打つ事の無いように、カインにしるしをつけられた」
 兄弟と和解せず一方的に殺すという行為にまで走ったこの一人の人間を、神さまはお見捨てになっていないのです。混乱の中にあったであろうカインをも、主はお招きになっているのです。彼に安全の保証としてしるしをお与えになり、遠く離れた場所においても祝福を受けることが出来るようにして下さったのです。その付けられたしるしが具体的に何であるのかは記されてはいません。しかし「御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と訴えたカインに対して、主は「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう」とおっしゃっています。これは、神さまがどんな時も共に居て守るという約束の言葉です。兄弟を殺すという罪を犯した者に対して、そんな者でも生きるように求められる神さまの御心は、死の判決を受けるべき者にも働いているのです。神さまは、そんな罪を犯す者に対しても関心を向け続け、ご自分に立ち帰ることを求め、祝福を約束されているのです。
 私たちは、罪を犯すという意味においても、カインの末裔であるのですが、同時に神さまの守りと祝福を受けることにおいても、カインの末裔であるのです。お祈りをしましょう。
 

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